出発
初の海外旅行は出発からヤバかった。
飛行機出発時刻に遅れたのだ。離陸時刻の2時間前にはチェックインせよとのことだったが、僕がついたのは離陸時刻の15分前だった。
寝坊でもしたかと言えば、そうではない。むしろ、出発の6時間前には新宿にいたのだ。新宿から成田までは6時間あれば十分だろう。が、あまりにも早く着くと思ったので、ビリヤードをして時間を潰していたのだった。
潰しすぎてしまった。出発は確か、18:30だったが18:00にはまだ電車の中だった。僕は思った『あ〜、どうしようか・・・友達や親には何ていえば言い。成田付近で1ヶ月間潜伏してようか。そして、アメリカはこうだったと適当に言えばいいか。しかし、ここで何とかできるはず。おれならできるぞ。』
空港に着くやいなやまず、受付スタッフがいるところまでダッシュ。それはどこの航空会社でも良かった。そして、「マレーシア航空なんですけど、何とか今から乗せてください。どうしても18:30の便でアメリカに行かなくてはならないんです。一生のお願い!」
するとスチュワーデスらしき人は表情を曇らせながらすぐにマレーシア航空に電話してくれて、僕の代わりに飛行機を待つ交渉をしてくれた。
すると、すぐにマレーシア航空に人が迎えに来て飛行機まで連れて行ってくれるとのことだった。
当然、他の客たちは全員飛行機でシートベルトを終わっていた。僕も慌てて、荷物をシェルターに収め、ほっとして座席に沈み込んだ。
これほどの遅刻は人生のうち初めてだったし、これほど助かったと思ったこともなかっただろう。
それから、ほっとしたついでにワインと食事のパンをガンガン御代わりをして、すっかり酔っ払って爆睡してしまった。気づいたらL.Aの空港に着いていた。
あれ、そういえば、僕はどこにいくんだ!?
このとき初めて気づいた。自分がアメリカに着たけど、これと言った目的地もないって事が。しかも地理もほとんどわかってなかった。
慌てて回りの座席を見回すと、案の定、日本人らしき女の子のグループがいた。
こういうときこそ、日本人だ。世界で一番親切な国民!
地図もないし、アメリカのどこら辺に着いたのかもよくわからない。これからどこに行けばよいのかもわからないと。 と、相談すると、いくつかの場所をピックアップしてくれてさらに、地図ももらってしまった。
地図ゲット!ラッキー
そして、空港を降りるとバス停があった。ここに来てもやはりまだ目的地を決めていなかったので、バス停掃除の黒人のおばさんにさっそく、英語をぶちかましてみた。「すみません、僕は今日本から来たのだけど、LAではどこが良いですか?」
その黒人のおばちゃんはフフフと笑い、「サンタモニカは安全だし、いいと思うよ」と言い、行き方を細かく教えてくれた。しかし、ちゃんとおばちゃんの英語が聞き取れなくて、とりあえずサンタモニカ行きのバスに乗ってみた
SantaMonica
海外旅行なんて初めてだったので、どうやってやっていけば良いのか具体的に知らなかった。例えば、お金の事や移動手段など。
ただ、できるだけ多くを経験しようということしか考えてなかった。
サンタモニカ行きのバスに乗ったものの、どこで降りるかわからなかったので、とりあえず、それらしい所・・・きれいな海岸沿いで町並みの綺麗な所・・・で降りてみた。
そこはサンタモニカのはずれだったが、歩いて中心地(ダウンタウン)まではすぐだった。
まずは寝床を探そうとただで泊まらせてくれる教会や親切な人がいなかあっちこっちで尋ねたが、そんな所は何処にもなくユースホステルを紹介された。一泊20ドルの安さなのでとりあず行ってみた。
サンタモニカはきれいで治安も良く、LAの空港までも30分の近さなので日本人が沢山いる。サンタモニカのユースも僕が行った時には宿泊客の半分が日本人だった。日本人だけではないが、日本人は特に日本人同士で固まりやすく、僕もすぐに日本人に話し掛けられ食事に誘われた。
1日目だったので、とりあえず彼らについてスーパーへ行き買い物などをしたが、やはりこんなところに来てまで日本語しゃべってちゃ意味無いと思い、すぐに彼らから離れた。適当に外国人を見つけてはしゃべってみた。
みんなフレンドリーで、と言っても英語なので正確に何を言ってるかはわからないがとても楽しかった。
そんな時、ある日本人のやつが話し掛けてきた。やつの名前は忘れたが、年が一つ上で池袋に住んでいる男の子だ。
L.A.DownTown
そいつもあまり日本人だけで固まりたくないと言うタイプのやつだった。そしてそいつにはアメリカでのお金の使い方や効率よい旅行の仕方などいろいろ教わった。何よりやつの面白い所は、1.アメリカが大嫌いだと言う事。2.アメリカにはバイアグラを買いに来たと言う事。(当時はまだ非合法だったし、日本で高値で売れた)3.ブラジルから戻ってきたらしいと言う事。
で、そいつと話し合った結果、他に2人の人間を捕まえて4人で車を借りてグランドキャニオンに行く事になった。まずすぐ近くにいたオーストリア人の男の子を誘ったが、丁寧に断りを受け、次の対策を考えた俺たちはL.Aの空港へ向かう事にした。L.A.についた旅行客を片っ端から誘おうと言う物だった。
とりあず日本人の旅行客が多そうなロビーで、いろんな日本人にグランドキャリオンツアーを持ちかけたが残念ながらダメだった。
夕方まで粘ったが残念ながらツアーはお釈迦になってしまった。
その後俺たちはL.A.のダウンタウンに向かった。L.A.のダウンタウンは太陽が落ちたら出歩くのは危険な地域。日暮れに間に合うようにダウンタウンについた俺たちはせっかくなのでダウンタウンの最も危険といわれている地域、7th Street沿いにあるホテルに泊まる事にした。
食事をして軽く酒を飲んだら一緒にいた例の日本人のやつはすぐに眠ってしまったが、まだ時差ぼけの俺は夜中の3時には目を覚ましてしまった。
さっそく窓の外を覗いて見た。俺たちは4階にいたが、窓の外を見るとその4階も安全とはいえないのではないかと思われてきた。
ホテルの前には数十人のメキシカンギャングが通りに沿って一列に座っている。そしてホテルのすぐ隣は大きな交差点であったが、その交差点の向こうには数十人の黒人ギャングがたむろしていた。大きなバンの車が数十台やってきて中からやばそうなやつらが5,6人出てきて、割れたビンを道路に投げて大声をあげたりして暴れていた。
もしおれがやつらに見つかったら、俺のホテルも襲撃されそうな勢いだった。
次の日、俺は例の日本人のやつに昨夜の話をし、やつは苦笑いをしていた。
ここで俺とそいつは別れた。俺はやつの勧めにしたがい、GreayHoundというアメリカの長距離バスで1週間乗り放題のチケットを買う事にし、まずはHollyWoodへ向かう事にした。やつはバイアグラを求めてもう少しL.A.に滞在すると言う。
やつとは変に気の合う仲だったが、なぜかお互いに住所も電話番号も交換しなかった。だが、もし地球のどこかでまたやつあったら同じような旅をするだろう。
HollyWood
HollyWoodへはローカルバスで向かった。バス停まではL.A.のダウンタウンを歩いて行くのだが、ダウンタウンはひどく汚い。おしっこやマリファナの匂いでいっぱいだ。
ローカルバス内で一人の日本人の女の子とであった。やはりその子の名前も覚えていないが、彼女は「日本人ですか?」と話し掛けてきた。俺は当然の如く「いいえ、日本人じゃないよ」と答えた。
彼女もHollyWoodへ向かうと言うのでとりあえず、その日は彼女とHollyWood見物を行った。
彼女は生真面目な性格で俺のいいかげんな物とは正反対だった。次の予定や時間や行動は決まっていないとダメな性質らしい。なのでそういうのが苦手な俺とはちょっと気まずい空気が流れる事がしばしばあった。だが彼女のおかげで俺はバスタオルと石鹸とはブラシを手に入れる事ができた。彼女はちゃんとしたホテルに予約をとって泊まっていたのでそこから持ってきてもらったのだ。(俺はバスタオルや歯ブラシまで持ってきてなかったのだ・・・)
一通り彼女とHollyWood見物を終えて、俺はHollyWoodのユースホステルに泊まる事にした。次の日は彼女とUniversalStudioへ行く約束をしてしまった。これはちょっと失敗だった。アドリブな旅行の俺と定型の旅行の彼女とでは馬が合うはずもない。
ユースホステルではやはり何人かの日本人がグループをなして行動してた。
俺の部屋にも20才くらいの日本人の男の子がいたが彼は英語が全然しゃべれないが外人とがんばってコミュニュケーションをとろうとしてた。そんなそいつとは気が合って次の日のUniversalStudioへはそいつも伴って行く事になった。
UnibersalStudioへはHollyWoodからはすぐだった。
UniversalStudio行きのバスにはいろんな旅行客がいたが、ブラジルから来たと言うおじいさんと話が盛り上がった。
じいさんは「君はブラジルには行った事があるか?」と質問してきた。「いや、ないよ。今回が初の海外だよ。」
「そうかじゃあ、次はブラジルに行ったらよい。ブラジルの女の子は綺麗だぞ!と言うか、南米の女の子が綺麗じゃ。」「へぇ、みたことないなぁ。なんで?」「そりゃ、白人と黒人とインディアンの血が混じっているからだよ。」そういえば、人種が混ざれば混ざるほど綺麗になると言うのを聞いた事がある。
と、ブラジル人のじいさんの貴重な情報を手に入れて、俺たちはUniversalStudioへ到着した。
遊園地好きの俺にはかなり面白い所だった。が、案の定、例の女の子とはソリが会わず途中でおれはわざとはぐれて単独行動に出た。
帰りには合流できたが、彼女は面白くない顔をしていてがこれはしょうがないだろうなぁ。
俺と例の20歳くらいの日本人の男の子はユースホステルへ戻り食事にする事にした。
偶然にもその日は週末だった。平日はユースホステルはお酒は禁止であるが、週末は許された。俺とそいつはユースホステルのホールでお酒を飲む事にした。
2人の白人と友達になった。一人はデブでもう一人は痩せている。デブのやつはアメリカ人で痩せているやつはカナダ人らしい。4人は意気投合しいろいろしゃべっていたが、デブのやつが「なあ。俺の部屋にこないか?いいものがあるぞ。」と言い、タバコを吸う身振り手振りをして見せた。つまりのところ、マリファナの事だ。例の日本人のやつは「ええっ?大丈夫かなぁ・・・・」とかなりびびっていたが、おれが「タバコのように体に毒もないし、コカインのように中毒性もないから大丈夫だよ。」と誘った。
HollyWood2
そのデブの部屋も僕たちの同様のあい部屋だが、どうやらそいつしか泊まっていないようだった。太っているといっても小太りぐらいな感じだが、太っているやつはだらしないと思っていたが、そいつは意外と部屋を小奇麗に使っていた。
マリファナと言っても吸い方はいくつかある。普通のタバコのように乾燥した葉を巻紙に巻いて吸う方法と、プラスチック製の透明のパイプで吸う方法だ。
この吸い方によって効き目は全く違う。タバコ式ならじわりじわりだが、パイプ式なら一気にハイになる。
デブの方法は後者の方だった。
まず、僕が吸った。パイプにマリファナを詰め込み、デブがマリファナに火をつけ一気に吸い込む。火の熱が肺に入るのでかなりきつかったが、5分後にはハイになってた。次に日本人のやつが吸い、その次にデブが、そしてカナダ人が吸った。
そのデブも嬉しそうに、「お前らはじめてマリファナやるんだったな。Welcome to America!! グラスホッパー君!」とはしゃいだ。グラスホッパーとは、僕らはマリファナ初心者なのですぐにハイになってはしゃぐ、バッタも葉っぱを食べてピョンピョンはしゃいでるのをもじったものだ。
4人は超ご機嫌になった。たかだか壁が白いだけで大爆笑だったし、指が5本あることですら大爆笑だった。何もかもが楽しくてしょうがなかった。
そして4人はコミュニケーションホールへ行った。ホールは人が20,30人くらいいて盛り上がってたが、たぶん僕らが一番盛り上がってただろう。
しかし、ホールについた頃には4人とも足はフラフラで平衡感覚もなく、完全に頭のいかれたやつらになっていた。それでも僕は何とか平静を装って、見知らぬインド人としゃべったり、カナダ人の女の子としゃべったりしてたが、もう今すぐまた大爆笑したくてたまらなかった。
そんな中、例の日本人の男の子の精神は錯乱し始めていた。まず、デブのアメリカ人のやつに日本語で喰ってかかり始めた。
「何が欲しいんだ、金か?金が欲しいのか?」などと叫んでいるのだ。
デブのやつは慌てず、「一体何を言っているんだ?日本語じゃわからない。英語でしゃべってくれ。」と言うが、それが「金を出せ」に聞こえたらしく、
「いくらだ?いくらなんだよぉ?あ〜?」と日本人のやつは騒いでいる。
すぐに仲裁に入ったが、今度は僕もそのデブとグルになって例の日本人のやつから金を巻き上げようとしていると思ったらしく、
「りょうもかよ、あんたもグルだったのか!」と収拾がつかなくなってきてた。
今度はそこにマリファナを一緒に吸ったにカナダ人のやつも入り、「どうしたんだ、何を騒いでる?」と、さっきの楽しい馬鹿騒ぎから一変した。
ここで僕が感じたのは、マリファナはお酒と似た感じで酔っ払っているようになるが、内面は全く違うと言う事。肉体と精神が完全に分離している事を認識させられる。お酒の場合、精神的にも「どうでもいいやぁ〜」と言う感じになり、肉体もコントロールが効かなくなる。足がふらつき、ろれつが回らなくなる。だが、マリファナの場合は、精神的には「やばい、しっかりしなくちゃ」と思うのだが、肉体のコントロールがお酒以上に効かなくなる。そのため、精神的に弱い人やコントロールの弱い人は、「やばい、しっかりしなくちゃ」と言う気持ちの反面、何もできないでいる事に恐怖を感じる。そして、マリファナのすごさがここからで、その恐怖心が増大する。いや、正確にはもともとその人固有に持っていた恐怖心がどんどん表面化していくのだ。なぜそこまで言い切れるかというと、この後それを経験したからだ。
まず、例の日本人に「おい、よく聞け。今お前の肉体と精神が分離しているのを感じているだろう。そしてお前の心の中からいろんなものが沸いてきてるんじゃないのか?それらを静めろ。否定しろ。」と言うと、僕の予想通り、彼はすぐに黙り込んだ。
そして黙ってうなずいた。
だが、突然の事にデブのアメリカ人とカナダ人はちょっと怒り始めたので、例の日本人の言ってたことを説明し、今のやつの状態も説明した。
すると、デブのやつが「ああ、たまにいるんだ。そうやってトリップしちゃうやつ。もう今日は寝た方が良いよ。リョウはやつの部屋知ってるのか?」と理解してくれた。
カナダ人のほうは、ウンウンと頷きすぐに酒をまた飲み始めた。
そして、僕はこのトリップしてしまった日本人のやつをベッドへ連れて行った。
「おい、もう今日は寝よう。俺ももう寝るからさ。いいな?」と、やつをなだめてそれぞれベッドに入る
が、全く寝付けない。
やつが「りょう、寝た?」、「いや、寝てないよ」、「全然寝れなくない?なんかさ、いろんな考えが浮かんでくるんだけど。」、「ああ、おれもだよ。」
そう、僕にもいろんな妄想というか感情が浮かんできた。
『ホテルのみんなが今すぐ僕を殺しに来るのだ』や『さっき話してたカナダ人の女の子をレイプしてやるぞ』(と言ってもあまり綺麗じゃなかったのだが)や『今すぐみんな殺してやる』などなど、あらゆる感情が浮かんできた。だが、それと同時にそれらの感情を冷静に見つめている自分もいた。
「なあ、いろんな感情や妄想が浮かんでくるだろう。それらを全て否定してやれよ。現実じゃないんだ。」と僕はそいつに言った。「うん、妄想だよな。こんなの。」
いつのまにか、僕もその日本人も寝ていた。
翌朝、僕はいつものように起きたが、そいつは昨日の騒ぎを反省しているようで僕に謝り、ちょっと元気がないそぶりだった。僕は先に朝食を食べにホールに行った。
例のデブのアメリカ人もやせたカナダ人の姿もなく、カナダ人の女の子や、インド人のやつは普通に朝食を取っていた。するとあるオーストらリア人の女の子が僕に今日は何処へ行くのかたずねてきた。そこで僕は何を思ったか、その場にいたみんなに向かって、「おーい、ちょっとみんな聞いてくれ。今この子は僕に今日何処へ行くかたずねてきた。みんなは何処へ行くんだ?ちょっと、君(ホールの一番はじにいた人に)から発表していこう。さあ!」と、言い始めてしまった。
もちろん、みんな鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてた。結局誰も何も言わないので、僕は「俺はな、今日!ラスベガスへ向かうぞ!ラスベガスだ!その後は、グランドキャニオンを目指し、そして、ニューオーリンズへ向かう。そして、その次はメキシコだ!」と、みんなに演説し始めてしまった。
そして、最初に僕に尋ねてきたオーストラリア人の女の子に「で、君は何処へ行く?」と聞き返すと、「学校・・・・」。
そう、彼女は医学の勉強でアメリカに来ておりユースホステルをマンスリーマンション代わりに使っている人であった。そう、その事はついさっき朝食を食べにホールに来た時に聞いたばかりだった。『あ、さっききいたっけ。』と、反省し、その隣にいた男の子にも「では、君は何処へ行く?」と聞くと、「学校・・・・」。
あっ、しまった。この人も勉強のためにアメリカに来ているんだった!これもさっききいたばかりじゃない!
そうすると、他の人が、「リョウは、人の話し聞いてないじゃない」と、突込みを入れてくれ、みんなで笑った。
そのあとはみんな手早く朝食を済ませ、僕も部屋が同じだった、例の日本人の男の子にお別れを言い、ユースホステルを後にした。
ユースホステルの入り口の脇で座り込んでうなだれている人がいたのだが、それが以外にも前夜に一緒にマリファナをしたカナダ人だった。あえて何も声をかけずに去ろうとしたら、ある男の人に呼び止められた。それは同じユースにいたフィリピン人の人だった。年は僕よりもいくつか上で、彼が同じユースであった事もフィリピン人であった事も、この呼び止められた時に話しをしてわかった。
彼はさっきの朝食での出来事が印象的だったらしく、できたら僕といっしょに旅をしたいと思ったとのことだった。だが、彼はこれからサンフランシスコへ向かうとの事だった。そのサンフランシスコへ一緒に行かないかと言うのだ。
だが、僕は断った。お金の問題もあったが、ニューオーリンズを見たかったのだ。そしてもメキシコにもかなり興味を持ち始めていたのだ。
その事を彼に話すと、じゃあ、サンディエゴで会わないかと持ち出してきた。
サンディエゴとはメキシコとの国境にあるアメリカの町で、綺麗で比較的安全な町としても有名で、映画「TOP−GUN」の舞台にもなり、またEaglesの「ホテル・カリフォルニア」の実物がある町でもある。
「いいよ。サンディエゴで会おう。」と僕は承諾すると、彼は「確か、サンディエゴにはユースホステル一つある。そこで会わないか?日にちはこの日でどうだろうか?」
「ああ良いよ、ただ、その日にそこへいけるか確実に約束はできないよ。でも、ベストは尽くすよ。」と僕は軽く約束した。
そして、お互いにメールアドレスを交換し、握手をして別れた。
彼はなんだったんだろうか、別にゲイでもなさそうだったしお金にも困ってなさそうだった。(むしろ僕が困っているのだ)
そして、ラスベガスを目指そうと思い、GreyHoundのバスターミナルまで歩いた。
バスが到着するまでは2時間以上あったので、スーパーで食料などを購入し、公園で上半身裸で日焼けをし始めた。
すると、今度は変な怪しいおじいさんが近づいてきて、真剣な顔で「おい、お前、こんなところで裸になっていると、呪いをかけられるぞ。」みたいな事を言われた。正確に何を行っているか聞き取れなかったが、とにかく何かよくないことが起きるみたいな事をいってる感じだった。
訳わからないが、気持ち悪いので取りあず服を着てすぐにバスターミナルに戻った。この国はほんとわけがわからない人が多い。
そして、僕はカリフォルニア州を後にした。生まれて初めて砂漠を見る事ができるのだ。まあ、アラブのそれとは違うが。だが、もうこの頃に既に砂漠気候の影響が出始めていた。
LasVegas
ハリウッドからラスベガスまではほぼ6時間かかる。距離は500kmぐらいあるのではないだろうか。
アメリカ西部は映画の西部劇でもわかるように砂漠地帯だ。つまり、空気は非常に乾燥しており、非常にのどが渇く。日本ではない体験だ。
今回は僕が感じた日本とアメリカの違いなどを書こう。
映画や洋楽のヴィデオクリップのせいであろう。僕はアメリカでは、綺麗な金髪の女の人がいっぱいいたり、みんな僕らよりも最新の電機気を使ったり、黒人はみんなBadBoyのギャングの格好をしているものと思っていた。だが、実際は全く違う。
まず、アメリカの人はほとんどが肥満だ。男の子も女の子もみんなデブで、ホンジャマかの石塚がデブとは思えないぐらいだ。また、女の子は(もちろんデブが多いが)ほとんどが化粧をしておらず、服装もダサい。白いスニーカーに、ジーパンにT−シャツと言う服装が基本だ。日本の女の子のように、服装はおしゃれでもなければ、おねえギャル派、ギャル派、原宿派、などのような宗派もない。
そう、みんなが映画ヴィデオクリップで見ているような、シンディー・クロフォードや、ジュリア・ロバーツ、ジェニファー・ロペスなどのような美人はほとんど見ることができない。ちなみに、一ヶ月アメリカにいて綺麗だと思った人はたった二人しかいなかった。
当然、男の子もハンサムなやつなどいない。ブラッド・ピットもトム・クルーズもいない。むしろ、デブとハゲが多いのだ。
たまにハンサムな男の子や綺麗な女の子を見てもそれはアメリカ人ではなかった。ユーロから来てる旅人だ。またそのほとんどはスウェーデンなどの北欧の人だ。
黒人もそうだ。彼らの地位はいまだ低く、人種差別がないにしても彼らの持っている仕事は白人たちのそれとは差がある。ベガー(日本でいう浮浪者だが、物乞いの要素が強い)の多くもやはり黒人だ。
BadBoyなどのギャングなやつなどもほとんどいない、と言うよりも、昼間は見る事がないし、彼らがいるようなところには行くべきではない。
彼らアメリカ人が持つ家電製品や電気機器、車などもひどいありさまだ。MDウォークマンなどあるわけないどころか、いまだカセットウォークマンを持つ人もいる。CDコンポならず、レコードで聞いている人もいる。(レコードのレトロさを気に入っているのではなく、CDコンポが買えないような感じだ) 車などはタイヤがついていればよいといった感じのものばかりだ。日本のような綺麗でスポーティーなデザインのものはほとんどない。ビバリーヒルズに行けばやっと日本ぽくなる。
また、町を歩くと『一体こいつは何をしているのだろう?』と言うようなぼっーと何もしていない人をしばしば見かける。恐らく、仕事がない人かまじめに働いていない人だ。日本の町でそういう人を見る事はないだろう。みんな何か目的のために町の中に存在している。
そう、つまりアメリカと言う国は日本人が思っているほどではなく、むしろ全然しょぼい国だということだ。ただ、彼らはマス・メディアをうまく使い世界ナンバーワンの国を演出しているに過ぎないのだ。
しかし、なぜニューヨークが世界の中心と言われ、ウォール街が経済の中心と言われるのか?
それは一部のアメリカ人が恐ろしく働くからだ。その一部の人たちは仕事が大好きで、寝る暇を惜しんで働く。そう、アメリカでは働きたい人間が働き、働きたくない人間はそれほどがんばらない。
それに比べ日本の場合は、全国民が働く。働きたくな人も働きたい人も同等に働く。働くのが義務になっている。
つまりアメリカは一部の有能な人間によって国が保たれ、日本は全国民で保たれていると言って良いだろう。
この社会システムが良いかどうかは別だ。ただ、事実がそうなっているだけだ。
これを日本人は勘違いしているだろう。一部のポテンシャルの高いアメリカ人を見て全体をそうだと思い負けじとがんばっているが、実は市民レベルでは日本は既に世界でナンバーワンになっていると思うのだ。ではなぜそれに気づかないかと言えば、恐らくそれは前述したアメリカの演出力と、日本のマスコミの情報操作であろう。マスコミ的には他国を賛美した記事の方が、自国を賛美した記事よりも売れるからだろう。
だが、事実は違う。
日本はファッションではイタリア、フランスなどのヨーロッパと競い、ハイテクと経済でアメリカと競っている。そう、世界と戦いすぎているのだ。その重さが我々国民の一人一人の労働時間などに反映されているのではないだろうか?
だいぶ話がそれたが、社会レベルでの日本とアメリカの違いを述べてみた。
では生活レベルではどう違うか。
先ほどデブが多いと言ったが、その理由はアメリカ人の食生活が大きな原因となっているようだ。自動販売機はもちろんないし、売っている飲み物はまずいコーヒーとコーラ、まずいリプトンティー、7Up、ぐらいだ。スーパーに行けば、オレンジジュースと牛乳とお水が売っているものの、お茶、ウーロン茶なんてない。
アイスやお菓子は異常に甘く、おいしくない。朝はマフィンで始まり、昼はハンバーガーなど、夜は何を食べているのかわからないが、おいしいものではなさそうだ。
最近では中華と和食がはやっているらしく、ニューヨークーで儲けたければ、寿司屋をやれと言うくらいだ。向こうにも吉野家があるが、怪しい天丼とカツ丼があったりするし、寿司屋さんはわけのわからないものが寿司に乗っていたので食べるのは遠慮した。
アメリカではバーガーキング、マクドナルドがおもで、大概飲み物は日本と同じ値段でドリンクバーだ。マクドナルドのドリンクカップを持っていれば、よそのマクドナルドでもジュースを飲む事も可能だ。ハンバーガーはやはり大きくてボリュームがあり、ポテトはポテトをカップをあふれてトレーいっぱいに入れてくれる。
なので500円くらいですぐにお腹いっぱいになる。
ジーパンなどは安く、リーバイスなども4000円くらいでCDも1400円くらい。市内バス代もたいがい100円くらいだ。基本的に物価は安い。と言うよりも、日本が高すぎるのだろう。お酒などの飲み代は日本より少し安いといった感じだった。
僕が感じたアメリカと言う国はこんな感じだ。
そしてカリフォルニアからラスベガスまでの砂漠の間は僕はやたら水を飲んだ。6時間の移動で1.5リットルを飲み干してしまったくらいだ。
カジノの町ラスベガスについたのは夕方の7時ごろだったと思う。映画に出てくるラスベガスと同じだ。何もない砂漠の土地に突然燦然と光るネオンが現れる。メインストリート沿いには映画や旅行パンフで見る、ミラージュなどの有名ホテルが並ぶ。
バスはそれら有名ホテルを通り過ぎ、町のカジノ街のすぐそばについた。
僕はここで少し休憩を取る事にした。次の便が6時間後に来るのでそれに乗るつもりで、少しここを観光する事にした。
さっそくカジノ街のアーケードへ足を運んだ。
今回はこの旅で最もえぐい話です。覚悟して読んでね。
これは話すべきかどうか悩んだけど、小さな嘘でも良くないと思ったので素直に書きます。
ラスベガスのカジノ街はとてもきらびやかだった。観光客も年配の人が多く、どの人も定年後の余暇を遊んでいるようだった。もちろん、日本人も多い。
この町を楽しむにはお金がないと始まらない。僕のような貧乏人が来ても楽しめる場所ではないのだが、300円くらいをとりあえず、カジノのスロットにつぎ込んでみた。
昔からギャンブルと金運に縁が無い僕には当然、カジノの面白さが風のように去っていった。
とりあえず観光と思い、カジノ街のアーケード(観光バスがすれ違えるほど広いアーケード)をぶらぶら歩き、適当なベンチに座りジュースを飲んでいた。
すると、そこへ黒人のおじさんが隣に座った。特にどうと気にしていなかったのだが、たまたま目があったので挨拶をすると、彼は僕が観光客だとわかったらしく、何処から着て何処へ行くのかなどを訊ねてきた。
僕らはそれぞれ自己紹介をし、アメリカの音楽の事や土地の事などいろんな話題に触れた。当然、彼の名前は覚えていない。
彼はラスベガスのこの中心地から車で30分の所に一人暮らしで住んでいるらしい。
もう今は仕事はしていないようで、退職金と積み立てて暮らしているような事を言っていた。
1,2時間くらい話しただろうか、ふとちょっと強めな風が吹いてきたと思うと、僕らの足元にはポルノ雑誌の金髪美女のヌードが載っている切れ端が飛んできた。
僕らは笑いながらその切れ端を広い、下ネタの話をはじめた。
下ネタの話も弾んで(!?)来た頃、おもむろに彼が言い始めた。
「なありょう、うちにポルノビデオがあるのだが、見に来ないか?」
「え?ぽるの?いや、いいよ」と、当然断った。いくら意気投合したとはいえ、よく知らないやつだ。また、下ネタの話が始まったがしばらくするとまた、「なあ、ポルノビデオを見ようよ。日本じゃ見れないようなすごいのがあるぞ。」とまた誘ってきたが、今度はかなりしつこく誘うので、「う〜ん、まあ良いよ。」と結局のところ承諾してしまった。
このおっさん一人なら例え銃を出されても何とか勝てそうな気がしたし、それに俺は貧乏旅行をしてる事もわかっているはずなので行ってみる事にした。
話どおり、おっさんの家は車で30分ぐらいの所で、中級クラスのマンション街で一部屋を借りているようだ。部屋は多少散らかっていたが、一人暮らしのおっさんのわりには綺麗な方だろうか。さすが黒人で現代的なステレオは無いがレコードプレイヤーとJazzのレコードが音楽を生活の一部としている人種であることを表しているように思えた。
部屋の中央にあるソファーに座らされ、おっさんはアメリカのまずいコーヒーを入れてくれた。砂糖を入れていないのに、なぜか甘いアメリカのコーヒーは、僕にはとても飲む事ができなかった。
そしてさっそくと言わんばかりに、おっさんはポルノビデオをビデオデッキにセットし始めた。
ポルノの内容はごくありがちなものだった。あまり綺麗じゃないポルノ女優と男優ががただ普通にHをしているだけだった。そんなビデオを見せて、「どうだりょう、アメリカのポルノはすごいだろ?」と多少自慢げだったが、僕は「えっ?これは全然詰まんないよ。」とあっさり否定すると、「え、何?よし!ならもっとすごいのあるぞ、これはとっておきだよ。」と、違うビデオをセットし始めた。
それはとても綺麗でスタイルの良いポルノ女優が出演していてさすがに悪くなかった。「どうだ、これはいいだろ?」「うん、エロイな、これは・・・・」と納得した。
するとおっさんは、「なあ、リョウのチンチン立ってきてんじゃないのか?」と僕の股間は触り始めた。「おいおい、何をするんだよ、」「良いじゃないか、男同士だろ。俺はもう立ってきたぞ。」と、おっさんは僕の手を引っ張りおっさんの股間に触らせた。
おっさんは、かなり興奮しているようだったが、僕は「あんた、ゲイか?」と冷静に質問した。おっさんは、「いや、俺はゲイじゃない。アナルセックスは嫌いだ。」とゲイである事は否定した。だが、「なあ、リョウのチンチンを見せてくれよ。」と言い始めた。
当然僕は断ったがあまりにもしつこいので、こうなったらと堂々と見せてやった。
「おお、日本人のチンチンは小さいと聞いていたが、りょうのは大きなぁ!」と感心し、それを聞くと僕もちょっと自信がついた。
今度は、「なあ、俺のをしごいてくれよ。」とおっさんはチンチンを出し始めた。
黒人のチンチンは大きいと言ううわさだったが、どうやら個人差があるようで、おっさんのはそれほどではなかった。日本人のものと変わらず、ただ黒いだけだった。
「なあ、りょう、しごいてくれ」とおっさんはしつこくせがんだ。
「そんなの変だよ。」というと、「アメリカのハイスクールだと、スポーツをした後にシャワールームでみんなシャワーを浴びるよ。そういうときにたまにしごきあったりするんだよ。」とおっさんは言うのだが、『まあ確かにありえるな。アメリカ人はそうするのか・・・まあ、それに黒人のチンチンを触ってみる機会もないな。』と思った。
そして僕はおっさんのチンチンを触ってみる事にした。これは全く日本人と(自分のものと)かわらなかった。おっさんは僕に触られて、さらに興奮しうめき声をあげていた。そしておっさんはいってしまった。ソファーの前にあったテーブルに上においてあったタオルに慌てて出していた。そして、おっさんは僕のチンチンをしごき始めた。僕もテーブルの上にあった違うタオルに出してしまった。
それからおっさんは僕をバスターミナルへ送ってくれた。
「またこいよ。メキシコの帰りはラスベガスに寄ればいい。」とおっさんは言ったが、「メキシコからここへは遠いよ。まあ、暇だった来るよ。」と答えて、立ち去ろうとしたがおっさんは「りょう、旅にはお金がいるよ。」といい、財布に入っていた15ドル全てを僕にくれた。「少ないが、これを足しにしたらいい」「はあ?これは受け取れないよ。いいよ、いらないよ。」と僕はもちろん断った。が、「いいから受け取れ。」とまたしつこく言うので、結局のところ受け取ってしまった。
そして僕はおっさんに別れを言い、バスに乗った。『ふ〜ん、アメリカじゃぁ、ポルノビデオを見てマスターベーションをしたらお金をもらえるのか。これがアメリカンドリームってやつなのか?』とふと思った。
グランド・キャニオン
ラスベガスを後にした僕はバスで次の目的地、グランドキャニオンへ向かった。
グランドキャニオンへはどのくらいの時間がかかったかは忘れた。ただ、それまで夜でもT−シャツで過ごせた暖かさだったが、既に3枚も洋服を着なくては寒いまでになっていた。グランドキャニオンに行くにはフラグスタッフと言う町へ行かなくてはいけない。フラグスタッフからまたバスなどに乗ってゆかなくてはならないのだ。
フラグスタッフへついたのは次の日の早朝だった。確か若干雪もちらつく寒さだったと思う。
バスを降りてすぐ、グランドキャニオンへどうやって行くのかを人に尋ねると、どうやらツアーバスなどに申し込んでいかなければならないらしい。が、結構お金がかかるようでどうしようか悩んでいたら、「おい、君。君は何処へ行くんだ?」と白人のおっさんが話し掛けてきた。中肉中背の帽子をかぶった、ごく普通のおっさんは特に怪しいところもなく、まるで僕に道を聞いてくるように話し掛けてきた。
「俺は今から、仕事の関係でグランドキャニオンの方へ行くのだけど、もしグランドキャニオンに行くなら乗せていくぞ。」
「うん、グランドキャニオンへ行くよ。でも、お金がない。だからどうしようか考えてる。」
「だったら、俺の車に乗っていけよ。ついでに乗せていこう。」「いや、お金がないからいいよ。ただなら乗せてもらうけど。」
「ああ、いいよ。ただでいいよ」「え、ほんと?」と僕は非常に驚いた。フラグスタッフからはツアーバスだと3,4千円ぐらいで2時間ばかりの距離らしいと聞いていたからだ。
車はライトバンで中にはもう一人白人の青年が座っていた。彼と話すとどうやら彼も旅行客らしい。当然のごとく、彼の名前も覚えていないしそもそも彼とはあまり会話が弾まなかった。
白人のおっさんは、「グランドキャニオンまでは2時間ある。向こうはお店とかも無いから途中のスーパーによっていくよ。そこでいくらか食事を買ったらいいと思う。」
と、フラグスタッフのバスターミナルから20分くらい行った所のスーパーに寄った。
僕らはそれぞれ買い物を終え、そこからさらに30分くらい車を進めたところで、ガソリンスタンドに寄った。
だが事件が起きた。
ガソリンを入れ終えると白人のおっさんは「なあ君、35ドルでいいよ。」と僕に言ってきた。「はあ?何が?」と聞き返した。
「グランドキャニオンまでの運賃だよ。」「はぁ?さっき、ただっていたじゃないかよ。」
「え、そんなの冗談だと思った。」「冗談のわけねぇだろ。」
と、ここまで来ると僕はもうぶち切れた。この後は、日本語で暴れ始めた。
そしてしまいに、「てめぇ、なめてんじゃねぇぞこのクソがき。ぶっ殺すぞ。」とおっさんを軽くどつき、襟首つかんで怒鳴り始めていた。
それを見ていた、もう一人のグランドキャニオンへ行こうとしていた若い白人は車を降りて僕を止めに来た。
それでも僕はまだ怒鳴っていたが、頭に気ながら今来た道を戻り始めた。
後ろからは「おい、何処へ行くんだ?」とおっさんの声がしたが、「町に戻るんだよ!このMotherFucker!(英語で一番汚い言葉)」と怒鳴って、てくてくと歩き始めた。
実はバスでグランドキャニオンに行くお金はもちろんあったし、35ドルも持っていた。が、だまされた行為がむかついたし、日本人だからってなめてんじゃないのかと思ったので、激怒した。
時計は持っていなかったが、車で1時間くらい着た所のガソリンスタンドだったと思う。しかも全く地理が無かったし、秋服しか持っていなかったので冬になっているこの町ではとても寒かった。途中、親切なおっさんがかなりの間一緒に道を歩いてくれ、何でこのな所歩いてるのかとか、フラグスタッフのバスターミナルへ戻る事などを話した。
かなりの時間を歩いたようだった。もう、くたくただったし、バスターミナルに戻ったのは夕方近くだった。戻った頃にはちょうどバスがきていたので、難なく乗る事ができた。
さあ、気を取り直し、目指すはJazzの町、NewOrlings。
といっても、NewOrlingsまでは青森から名古屋くらいかそれ以上の距離がある。
まず次に目指すのはPhenix。Phenixはこの雪の降る町、FlagStaffとは違い、太陽が常に見える砂漠の町だ。このFlagStaffからはバスでも数日の距離だ。
通過した街
FlagStaffからNewOringsまではバス中での宿泊が中心だった。今回はバスで通った町の模様を話そう。
Phenix。ここについたのはお昼時だった。周りは見渡す限りの砂漠。ここら辺のおじいちゃんはみんな ウエスタンハット、ジーンズ、と言った映画の西部劇のカッコウをした人が結構多いし、実際、ここら辺が映画の舞台になった場所だろう。
バイクと言えばハーレーダビッドソンと言われるが、アメリカでハーレーを見ることはほとんどなかった。みんな日本車だ。
ここPhenixあたりでやっと、コテコテのアメリカンヤンキーを見ることができた。「ロンゲで、髭をはやしタバコをくわえてサングラス。ジーンズで、ちょっと汚いハーレーにまたがる。」といったやつらだ。と言っても二人しか見なかったが・・・・
El Paso。ここには深夜ついた。ちょうど、僕がついた日はハロウィンの日で、町は変装した人たちでいっぱいだった。日本とは違って、夜に人はほとんど歩いていない。この日はハロウィンだったので、まだ少しは歩いていたが。
もちろん、平日なら東京くらいの大きな町でも人は歩いていないし、まして東京のように女の人が一人で21:00ぐらいに歩いていたら、襲われるだろう。
この町はメキシコ人がいっぱいいる。またお店の多くがスペイン語だ。メキシコとの国境の町でもあり、ここら辺ももともとメキシコ(インディアン)の土地だったからだ。だからこの町の名前、エル・パソはスペイン語で『一歩踏み出す、踊る、最初の一歩』などの意味がある。
El Pasoだけでなく、アメリカの町の名前にはそれぞれ歴史がある。町の名前でアメリカ南北戦争時代、それ以前は何人が支配していたかがわかる。
LosAngels、SanDiego、LasVegasなどはインディアン(スペイン)。Phenix、FlagStaffなどはイングランド人、そして、NewOrlingsはフランスだ。
SanAntonio。ここもメキシコ人がいっぱい。ElPasoやここSanAntonioになると、もうアメリカの匂いはしない。メキシコの匂いになる。空気は乾燥し、町が土埃っぽく、飛び交う言葉はスペイン語。建物はみんな低く、ビルがあまり無い。
ラテンの人々はとても陽気だ。「これから何処へいくんだい?」などと気軽に話し掛けてきて、「俺はこれからアメリカに仕事だよ。出稼ぎなんだ。」という感じだ。
ここでは野宿(寝袋も何も無かった。ただ、地面に横になるだけ)してしまった。夜中の1:00ごろついて、とても眠くてたまらなかったので、雨が降っていたが、オフィスビル(メキシコ的な町なのでビルが珍しい)の非常口で睡眠した。(アメリカで野宿などもってのほかです!)
Huston。ここに来ると一気にアメリカになる。町も高層ビルが立ち並び、町も現代的だ。Hustonの町では街中に野生リスが歩いている。最初はねずみかと思うが、よく見ると灰色のリス。この町のつくりはLosAngelsによく似ている。雰囲気も。
この町のバスターミナルでアメリカで初の美人を見ることができた。(ほんとにデブしかいない・・・しかもださいし。)しかし、やはり白人ではない。黒人の女の人だった、いやもしかしたら、ラテン人かもしれない。白人の男の人がなにやら話し掛けていた。紳士的なナンパのように見えた。
そして、ここからNewOrlingsに向かう。Hustonを出たのは夜だった。たぶん、10時間ぐらいかかっていると思う。今までバスはそれほど人が多くなかったので、バス中の宿泊は楽だった。バスは日本の観光バスとおんなじ物だ。ただトイレがあるだけで、宿泊と言っても椅子の背もたれを倒して寝るだけだ。
だが、HustonからNewOrlingsまでは途中で止まる町が多かったし、人もいっぱいだった。さすがに、バスと野宿の生活で歯が浮いてきてしまった。だいぶ疲れてきたようだ。
そしてついにJazzの町に来た。NewOrlingsはまだ朝の6時だった。
ニュー・オーリンズ
NewOringsに着いたのは朝の6時ごろだった。
NewOringsは、黒人の町。白人はいないことは無いが、他のどの町とも比べても黒人が非常に多い。
僕は早朝からユースホステルを探しに町を歩いた。1時間くらい町をうろうろしていたら、何とか見つけることができさっそく部屋へ入った。
前日からあまり寝ていないかったので、すかさず眠ってしまった。
起きたのはお昼ぐらいだった。部屋は4人部屋で僕以外に一人だけ、ドイツ人がいたのだが、起きたときにはもう一人アジア人がいた。どうやら僕が寝ている間にこのユースに到着したらしい。やっぱり彼名前は忘れたのだが、彼は中国系イングランド人だった。
実はイングランド人といっても白人ばかりかと言うそうではない。それは歴史に理由がある。イングランドが大英帝国時代、多くの国を植民地にした。歴史の教科書で読んだことがあると思うが、「日の沈まぬ国」と言われた大英帝国は東は中国(香港)、インドにわたり、西はアメリカ・西部、南はアフリカにまでその植民地を広げていた。そのため、イングランドにはそれら多くの植民地より、時には移民として時には奴隷として多種の人種がわたってきたのだ。
それ故、イングランドはインド系・中国系・アフリカ系・アイルランド系と人種を自分たち以外に4つ持つ。アイルランドは今回のワールドカップでも知られるようにイギリス政府内にあっても、国を異にする。故に彼らはイングランドとは別の国として出場してきた。(これには他国から異論があったが、アイルランドが世界の世論を動かし、また、彼らがイングランドとは別に予選を勝ち抜く強さを持っている)
彼らは言う、「我々はイングランドと政府は同じだが、人種も国も、全く違う。」彼らの独立心は非常に強く、そして愛国心も非常に強い。それは例え女性でも。
イングランド人と会うのは恐らく、人生でもこの時が初めてであった。たかだかイングランド人なのだが、とてもショッキングな事があった。
それは、言葉だ。今までアメリカの英語で話していたのだが、その中国系イングランド人の彼と話して、アメリカ英語とイングランド英語の驚くほどの違いにショッキングだった。そして何よりも、全く言っている事が理解できないこと。そして通じない事。
だが何とかコミュニケーションが取れ、二人で観光する事になった。
ここでの観光名所はフレンチクォーター。
フランスがアメリカに植民地を作った際、ここにフレンチクォーターと呼ばれるフランス人街を作ったのがそのまま繁華街になり、観光名所になった。そのため、ここは非常にヨーロッパチックな街並みになっている。
町の中央に大きな教会と広場、噴水があり、そのまわりには碁盤の目のようにお店が綺麗に立ち並んでいる。また、近くにはミシシッピ川が流れ、日本人にはこの町は牡蠣が採れる事で有名だ。
ミシシッピ川のほとりには日本にもよくある大きなショッピングモールがあり、僕らはそこを観光しこの日を終えた。
彼との観光は正直あまり面白くなかった。彼もやはりそう思っていただろう。なぜなら、言葉がほとんど通じなかったし、彼は言葉でのコミュニケーションを中心とするタイプでHollyWoodで一緒にマリファナを吸ったアメリカ人やカナダ人、後に出会うスペイン人やメキシコ人のような「のりで遊べるタイプ」ではなかったからだ。
そして、もう一つ決定的な「違い」があることがわかった。
彼はこのNewOrlingsには3泊すると言っていた。また、最初からいたドイツ人は僕ともあまりはなすことも無く、いつも何処かに行っていた。
そして夕食の時、僕は一人で食事をしていたのだがそのドイツ人とイングランド人の二人は仲良く食事をしていた。ここで僕は思ったのだった。『この二人、どこか変だぞ。』
すると彼らは手を繋いでシャワーを浴びにシャワールームへ行ったのだ。そう、彼らはゲイだったのだ。このユースホステルは泊まっている人が少なく、シャワールームはいつも誰もいなかったが、彼らがシャワールームで何をしていたかはあえて言わないし、僕も見に行こうとは思わなかった。
食事を終えた後は僕はテレビを少し見た後すぐに就寝し、夜中にトイレに起きた時には彼らは一つのベッドで寝ていた・・・・えぐい・・・・
次の日の朝、二人はとても新鮮な笑顔で、「じゃあ、りょう、僕らは行くよ。良い旅を!」と元気に旅立っていった・・・まあ、いろんな趣味の人がいるもんだ・・・
ニュー・オーリンズ2
彼らが出発した後、僕はまた寝た。バスでの生活はかなりこたえていたのだろう、寝ても寝ても眠い。次に起きたのは、新しい旅人がこの部屋で荷物を広げ、整理している時だった。彼は日本人だった。彼の名前は『なおき』。僕にしては珍しく名前を覚えている人物だ。そう、彼の事は忘れないだろう、僕の人生の中でも彼は飛び切りの人物だ。
ちょっと小太りで、どちらかと言うと強面のロンゲに髭を伸ばした彼だが、もう32歳になると言う。広島出身の彼は見た目は26歳くらいだったが、彼は生き方も若い。
彼は、日本からイランあたりへ行き、そこ彼ひたすら西へ旅してきたと言うのだ。
そう、このNewOrlingsで彼はちょうど地球を半周したぐらいになる。
そしてこの後はこのまま西へ向かい、ハワイへ行き、12月のホノルルマラソンに出場する予定だと言う。その後はまだ決まった無いそうだ。
お互いに非常に意気投合し、僕らは今まで旅の経過を話し合った。
そしてこのなおきのスイスでの事件が大爆笑だった。
(なおきの話は、またえぐい話です。ただ、他人事なので大爆笑の話ですが、これでまた嫌われるかもと心配なので、圧縮して添付しました。もし、大丈夫そうなら自己責任で読んでみてください。日本人でもこういうアホがいるんだと爆笑できるとは思います。読む場合は添付ファイルをダブルクリックしてね)
その後なおきは、「りょう、俺はさ、訪れた町でいつもランニングしてるんだ。このNewOrlingsでもランニングしようと思ってるんだけど、お前もこいよ。」
「えっ!?ランニング?ん〜〜〜、まっ、いいか、いいよ、行くよ、何処まで?」とこたえると、
「ミシシッピ川まで行こうぜ」
「ミシシッピ川まで?遠くない?」「いや、朝のマラソンにはちょうどよいぞ」
このユースからミシシッピ川まではバスでも15分くらいかかる、そう軽く10キロぐらいはあった。
だが結局、僕はなおきに付いて走ってしまった。
NewOrlingsの町はまだ朝の8時だった。そう、通勤通学ラッシュの時だった。
なおきは走りなれているのでグングン進むが、僕はランニングなんて数年もやっていなかったので、あっという間に距離を離された。
そんな日本人二人が走っているのを見た、通勤・通学途中の黒人たちは面白いやつらだなぁと言う感じで笑って見ていた。僕がへとへとになった走っているのを見たバスを待っている黒人のおばさんは大きな声で応援してくれた。
一応、アイドルのような笑顔を作って黄色い(?)声援に答えたが、先に進むなおきに追いつく事を考えると倒れそうになる。
なおきがユースに戻って30分くらいしてから僕がついた。僕らは朝食を食べてから、行動を別にした。なおきはシャワーを浴びて、すぐにまたミシシッピ川のほうへ観光に行った。「ちょっと、牡蠣を食べに行こうと思うんよ。りょうはどうするの?」「俺は今日はフレンチクォーターをゆっくり見物しようと思うよ。昨日も少し見たんだけど、しっかり見ていないから。それにメキシコにいく準備をしないといけないよ。」そう、僕はまだメキシコに行くと言っても、どうやって、どの町から行き、そしてメキシコの何処へいくなど何にも決めていなかった。
「ほう、ならじゃあ、また夜な。時間があった飯でも食おうや。」「オーケー、じゃあ、また夜ね」
そして、僕はシャワーを浴びしばらく休んでからフレンチクォーターに向かった。
これがまだ朝の10時ぐらいの話だ。そう、この日はとても長かった。とても多くの出来事が起きたのだ。
ニュー・オーリンズ3
NewOrlingsについて二日目、この日はとても多くの出来事があった。
フレンチクォーターへはバスで15分から20分。
着くなり、お菓子とジュースを購入しクォーターの中心にある大きな教会の入り口の階段で座って食べ始めた。
すると、一人の若い白人の男の子が話し掛けてきた。
「ねえ君、ちょっといいかなぁ?」 彼は大きなカメラを首から下げ、そのカメラを指差しながらこういった。「僕はいろんな場所で写真を撮って旅をしているのだけど、よかったらちょっと撮らしてもらってもいい?」 「ん?PlayBoyみたいに?」と僕は返事をし、彼は「ははは、それでもよいよ」と笑い、お互いに握手をした。
ちょっと座るポーズを変えて、お菓子の紙袋を持って片手にコーラを持つと言う姿を彼は何枚か写真に撮った。なんだか、モデルになったような気分で楽しい!
その後は、その彼とこれから何処へ行くのかなどをしゃべり、別れた。
次に僕は本屋さんへ向かいメキシコの地図とスペイン語の参考書を買った。そして、フレンチクォーターをたっぷり観光した。フレンチクォーターは前述のとおり、フランス人街なので作りもヨーロッパ式だし、お店もヨーロッパチックなものが多い。骨董品、絵画店、ガラス細工点などのお店とバーやパブが並ぶ町だ。そして、この町は音楽に満ちている。町の通りの角では、黒人の男の子がタップダンスで小銭を稼ぎ、小さな通りでは通りの真中にJazzを演奏するバンドがウッドベースやドラムを広げて演奏している。また、その隣の通りでは黒人のおじいさんがブルースハープでやはり小銭を稼いでいる。フレンチクォーターの中央にある教会の前では観光客の似顔絵を描いている画家が多数いたりと、とてもエンターテイメントがある楽しい町だ。そして、クォーターのはずれには大きな市場があり、ミシシッピ川で取れたワニの剥製(今もワニがいるかはわからないが)など、香辛料や野菜なども売られている。そしてその隣に綺麗なオープンカフェがあったのだが、そこにはとても多くの人が集まっていた。
そこでは、どうやらCMの撮影が行われているようで、日本人が描く、もしくは親しみがある綺麗な白人のモデルの女の子とハンサムな男の子が出演していた。
その周りを観光客がこれ見よがしに見物していたのだが、僕もその中に混じり見物してたときだった。
ブロンドのショートヘアの白人の女の子が話し掛けてきた。彼女の名前はナジャ。
ナジャはこのCM撮影のスタッフらしく、アメリカ人にしては珍しく美人だ。彼女は僕が何処から来たのかなどを質問してきたので、「ユースホステルからだよ」と答えると爆笑して、「いえ、あなたの国よ。」とかえしてきた。「今、CMの撮影をしてるのだけど、もしこのカットがNGになったらどう?あなたも出てみない?」と、とんでもない事を言い出した。「ええっ??CMに出る?え、僕が?」と僕はとても驚いた。「そうよ、といってもエキストラだけど、どう?」「うん、いいけど、PlayBoyのCMじゃないよね、これ?」「ははは、ええ、残念だけど。」
結局、このCMのカットはNGにはならず、僕の初出演は幻に終わった。そして、CMスタッフはそそくさとセットを片付け始めた。ナジャはまだ僕としゃべっていた。
彼女は僕の宿泊しているところなどや電話番号を聞いてきたが、地元ではない僕には到底説明など無理だった。そんな時、今度は僕よりちょっと背の高い黒人の男の子が話し掛けてきた。彼の名前はアンドレ。彼がアフリカの黒人でもアメリカの黒人とも雰囲気が違う事がすぐにわかった。何処となく品がある。アンドレはナジャの同僚だった。
ナジャは僕の事をアンドレに説明すると、アンドレは「じゃあ、今晩みんなで食事にでも行こうよ。りょう、ユースホステルに戻ったら、僕の携帯に電話をして。僕が車で迎えに行くよ。」と彼は話をまとめてくれた。だが、アンドレの英語は独特のなまりがあってなかなか聞き取れなかった。どの町に行っても女の人の映画は聞き取りやすいが男の人の英語は地方、地方のなまりがあってなかなかわかりにくい。
CMスタッフもみんな機材を片付けが終わり、引き上げようとしていたのでアンドレとナジャとも後ほど会う事を約束し、また別のところへ観光に向かった。
夕方にユースに戻ると、さっそくユースの住所を教えてもらいアンドレに連絡した。何とか話が通じて、30分ぐらいすると彼はユースに来てくれた。アンドレは仕事の帰りだったようなので、まず彼の家に向かった。
彼の車がまずすごかった。日本のBBがもっと大きくなったようなタイプで、乗り心地もよかったし、こんな車を持てる黒人はちゃんと働いてる証拠だろう。案の定、彼のマンションはとても綺麗だった。マンションの真中は吹き抜けになっており、吹き抜けには綺麗なガーデンが広がっている。マンション自体も黄緑やオレンジ色などを使ったカラフルでおしゃれなデザインだ。
そしてアンドレはあるビデオを見せてくれた。それはアンドレがあのマイケルジャクソンとCMで競演しているビデオだった。「さすがにあのマイケルジャクソンとのCMはとても緊張したよ。」と、他にも彼がCMに出演したビデオをいくつも見せてくれた。
もう夜の20:00ぐらいになっていたので、僕らはだいぶお腹がすいた。アンドレはナジャに連絡をとると、ナジャはまだ仕事が残っているらしく遅くなるので僕らは二人で食事に出かけた。そして、その後アンドレがよく行くと言うクラブへ行った。
平日だったのでがらがらで、僕らと他にお客が数名しかいなかった。そしてアンドレはなにやら電話をし、「りょう、他にも友達を呼んだよ。ナジャももう少しで来るよ。とりあえず二人で飲んでよう。」
そして、アンドレは自分の身の上を語ってくれた。「僕は純粋なアメリカ人じゃないんだ。フランス人とアメリカ人のハーフだよ。以前はLosAnglesの方にも住んでいたよ。あそこはいいところだね。でも、今度NewYorkの方へ行ってみたいと思っている。」僕は彼に今までのたびの経過を話した。そうしていると、ナジャやアンドレの友達がやってきた。
白人の男の人二人と黒人の女性だ。
白人の男は一人は痩せた気弱そうなやつで、もう一人はちょっとデザイナーぽい感じのやつで何処となくおしゃれだ。黒人の女性は、やはりアメリカでは珍しくすらっとした綺麗な女性でジャネットジャクソンのような感じだ。パンツスーツでばりっときめている。しかも、握手で挨拶をしたのだが、しなやかな身のこなしでまるで彼女のそばにはいつもカメラがまわっていてそれを意識しているようだった。
アンドレがそれぞれを紹介してくれた。
実はナジャもヨーロッパ系で、北欧系らしい。
まず、白人の痩せた彼はゲイだそうだ。そしてデザイナー風の彼がその痩せた彼の恋人だそうだ・・・そして黒人女性はオカマだった・・・
僕ら6人は一つのテーブルを囲んだが、とても不思議な気持ちだった。
ゲイとオカマと白人と黒人と黄色人種。まるで世界の全ての人種がこの一つのテーブルを囲っているようだった。
僕はつたない英語だったが、がんばって5人と話し彼らも何とか僕の言葉も自身も理解してくれたようだった。ゲイの二人は結構飲んだので、だんだん大胆になってきていちゃつくようになり、しまいにはチュッ、チュッとキスし始めた。正直、目の前にある光景をどう理解したらよいのか最初は戸惑ったが、彼ら二人が僕ら男女の恋愛以上に純粋に恋をしているのがだんだんわかってきた。
デザイナー風の彼がトイレに行き、しばらく帰ってこないと痩せた彼はすごく寂しそうな顔をするのだ。
しばらくすると、一人の白人の男が店に入ってきた。小さなかばんを持った痩せ型の男はしばらく一人でテーブルにつき、お酒を一杯飲んだ後かんばから注射器を取り出した。
それに気づいたアンドレは僕に目で合図をして、あまり見るなというような合図をした。そして、僕らはクラブの一番奥のテーブルに移る事にした。 その移る時にチラッとその白人の男を見たのだが、そいつは注射器でコカインをやっていた。ヤク中なのだ。
しかし一番奥のテーブルに移ったあと、アンドレやゲイの二人もコカインをやり始めた。彼らははなからテーブルの紙に広げた微量のコカインをはなから吸っていた。「りょう、お前もやる?」と誘われたが、さすがに断った。ナジャはマリファナをタバコにして吸い始めていた。ナジャも僕にマリファナをよこしたが、それは断らなかった。いまさらマリファナを吸ったぐらい、といった強気な気持ちがあった。
そしてアンドレ達が酒を飲みながらおしゃべりをしている間、僕とナジャは踊っていた。
僕は不思議な恍惚感に浸っていた。
知らない土地で知らないやつらと遊び、気に入った音楽で踊る。
もう何時なったかわからないが、例のオカマの黒人の女性(!?)は帰ることになったので、みんなでクラブをあとにし夜のフレンチクォーターへ向かうことにした。ナジャの車でオカマを家まで送り、ゲイの二人を乗せてフレンチクォーターへ向かった。僕はアンドレとアンドレの車で向かう。
車の中でアンドレと僕は音楽の話で盛り上がり、ちょうどその頃流行っていたローリン・ヒルをボリュームいっぱいでかけて町の中を走った。
真夜中のNewOrlingsの通りにはちょっとやばそうな黒人をしばしば見かけるが、僕らが大音量と大声で歌いながら走っていると、みんな手を振ってくれたりリズムにあわせて首を振ってくれたりしてとても楽しい。
夜のフレンチクォーターは昼間のように、街中で音楽を奏でる人はいないが、所々のバーやパブでJazzやBluesの生演奏が行われていた。
アンドレとナジャが連れて行ってくれた所はJazzもBluesもやってなかったが、他のお客もフレンドリーでみんなで盛り上がる事ができて最高に楽しかった。
店を何軒かまわった後、僕らは帰らなければならない事に気づいた。
そう、今日は平日だし、僕以外はみんな明日仕事がある。
帰る時、アンドレは僕に言った。「ナジャがよかったら、家に泊まりに来ないかと言ってるけどどうする、りょう?」 「うん、いいよ、ごめんね。」とナジャに断った。
ナジャは「うん、わかった。また、絶対にNewOrlingsに来てね。」と言ってくれた。
僕はなぜかそれに日本語で「うん、もちろん来る。また遊ぼう」と返事していた。
後で思ったのだが、ナジャとアンドレがたまに内緒話のような事していたのは、その事をナジャが話していたのだろうか・・・
ナジャがゲイの二人を送り、アンドレが僕をユースへ送ってくれる事になり、僕はナジャに再度、そしてゲイの二人に別れを言った。
ユースホステルに到着し、アンドレと最後の握手をし「ありがとう、ほんとにとても楽しかった。」と御礼を言った。
「いや僕も楽しかったよ。会えてよかったよ、りょう」「アンドレが日本に来る時には、連絡をくれ。」「ああ、ありがとう。良い旅を、りょう。」
そして僕らは別れた。正直言って、泣きそうな気持ちになった。実は食事や飲みに行った時のお金は全て彼が奢ってくれていた。国も違う人種も違う、全く知らない人間にこうも親切にできるだろうか?
僕は何か忘れていたものを思い出すことができたような気がした。口や理屈ではいえない何かを。
次の日の朝早くに僕はNewOrlingsを発った。なおきには昨日の出来事を話し、「ええなぁ、りょう。お前はええ旅をしてるなぁ〜。」とのコメントをもらい、お互いの旅の安全を祈り別れた。
El Paso
NewOrlinsからは、バスで来た道をEl Pasoまで戻った。
来た時のハロウィンのようなにぎやかさは無いが、メキシコとの国境都市には独特の雰囲気がある。
El Pasoに来たものの、一体何処からメキシコには入れるか全く知らなかった。とりあえず、歩いているおばさんに尋ねると、一人目のおばさんには英語が通じない・・・そう、ここの公用語はスペイン語。二人目のおばさんは何処の訛りかわからないが変な英語でよくわからない。三人目のおばさんでやっとバスでメキシコのバスターミナルまでいけるようなことがわかった。
とりあえず、ケンタッキーでお昼と今後の予定を組むことにした。
このときから何か変だった。
ケンタッキーに入ると、なにやら視線を感じる。さすがメキシコ国境の町、スタッフもお客もみんなメキシコ人だった。アメリカ人どころか、僕しか外国人がいなかった。なぜか、みんな僕の事をじろじろ見ている。
とりあえず、Taco(日本でいうタコス、タコスは複数形で普通はタコと言う)を注文し、パクパク食べていると、おっちゃんのメキシコ人スタッフが、「おいしいですか?」と聞きに来た。ファーストフードにしてはなかなかおいしかったので、素直に「うん、おいしいよ。」と答えると。「おお、ありがとう。」と言い、カウンターに戻っていった。
そして、僕が食べ終わり店を出るときにチラッとスタッフたちを見ると、にこやかに「Thanks You」を言われた。『おいおい、やけに愛想がいいじゃないか。メキシコはこういうところなのかぁ・・・???』
とりあえず、国境に向かった。ケンタッキーで、次の行き先の町はChihuahua市と決めた。国境からバスで6,7時間の場所らしい。
メキシコのバスターミナルへどうやっていけばいいのかはまたメキシコに入ってから探す事にした。
国境ゲートは日本の高速道路の料金所によく似てる。アメリカからメキシコ側へはいたって空いている、と言うよりも、特に厳重なチェックが無く車は空いている時の高速道路の料金所だ。しかし、メキシコ側はゴールデンウィークの料金所のような状態で、一台一台念入りにアメリカの国境警備隊がチェックしている。
歩行者のメキシコへの入り口はディズニーランドの入り口のようなバーエントランスになっており、クォーターコイン一枚(30円くらい)を入り口スタッフに渡して入ることができる。
メキシコの町はCiudad Juarezという。たぶん「チウダド・フォアレス」と読む。
これがメキシコのアメリカとの国境沿いの町になるが、一つのメキシコ人シティーが国境によって、南はCiudad Juarez 北はEl Pasoに分断されていると言った方が正しいだろう。
ゲートをくぐるとそのさの先は大きな橋がかかっており、その橋を渡り始めて5分も経たないうちに後ろを歩いていたメキシコ人のおっさんに話し掛けられた。おっさんは英語がしゃべれ、アメリカで出稼ぎをしていたらしい。そして今日、家族の元へ帰るのだと言う。歩きながら、おっさんといろいろしゃべった。
が、橋を渡り終え本格的にCiudad Juarezにはいると、そこは今まで見たことの無い雰囲気だった。当たり前なのだが、全てがメキシコだった。
人、土、空気、匂い、太陽。何処となく怪しげな雰囲気と10月だと言うのに、半袖で過ごさせる太陽。日本やアメリカのように道路は綺麗に舗装されておらず、メインストリートだと言うのに、いまだ道路を全面的に作り直している最中だ。匂いも小麦粉の匂い(Tacoが小麦粉でできているため)だろうか、嗅いだ事の無い匂いだ。
そして、人々はやたら僕を見ていた。『まあ、初めての人々だしとりあえず挨拶ぐらいはしよう。』と思い、覚えたてのスペイン語を使ってみたがなかなか好評だった。一緒に歩いてたおっさんも、挨拶以外のスペイン語を教えてくれたが、覚えきれなかった。目が合う人、会う人(と言うか、みんな僕を珍しそうに見ていたので、ほとんど全ての人)に挨拶をしていたが、何人かはわざわざ寄ってきて握手までした。
『おいおい、一体この国はどうなってるんだ?なぜ、こんなに愛想がいいんだ??』と、変な不安に陥った。
ところで、最初から一緒にいるおっさんとはかなり長く歩いた。Chihuahua行きのバスに何処から乗ればよいのかも、おっさんに教えてもらっていたのでおっさんには別れをいいバスターミナルへ向かおうと思っていたら、おっさんは「なぁ、よかったら、俺の家に来ないか。妻と娘がいるが。娘をお前に紹介したいと思ってる。どうだ?」と申し出てきた。
「いや、いいよ。」とこの申し出は断った。国境を超えたまだ1時間も経っていなかったし、アメリカよりも危険な国である、さすがに受ける事はできなかった。だが、おっさんは「Chihuahuaへは、後で行けばよい。うちで食事をしてゆきなさい。」と。 決して悪そうな人ではないが、丁寧に断った。
『一体、どうなってるんだ。この国は・・・・』と、僕はますます不思議でならなかった。
バスターミナルへ向かう途中も、子供がついて来て握手してきたりおばちゃんが挨拶してきたりと・・・と、ここで一つ思い出した。僕はドルしか持ってなかった。メキシコのアメリカ国境沿いではドルの方が歓迎されるが、内陸にいけばやはりメキシコ通貨、ペソが必要になる。まず、銀行へ向かった。
銀行の両替窓口に行くと、やはりここでも受付の女の子が満面の笑みで迎えてくれた。しかも、とても綺麗な女の子だった。が、英語が全く通じずスペイン語の本見せながら両替を何とか行う事ができた。銀行を出るときにチラッと受付の女の子を見てみたが、やはり満面の笑みで手を振って送り出してくれた。『何だ、何だ、この国は。俺を誰かと間違えてるんだろうか・・・』
バスターミナルへはタクシーを使わなくてはいけないと教わったが、町の中心地らしきところまでは歩いてみた。
メキシコは敬虔なカトリック教の国。と言っても、スペインの植民地時代からの影響なのだが、教会はとても大きい。スペイン風建築なのだろうか、少なくともアステカ人の物ではない。教会の前には噴水があったり、公園になっており沢山の人々のふれあいの場ようのな感じだ。
またここでも、そうだった。
ちょうど公園の横歩いている時、通りがかったバスの中から声をかけられ、振り向くと女子高生らしき学生たちが手を振ってくれた。愛想よく、挨拶を返したが、なんなんだろう・・・『まるで、マイケルジャクソンじゃねぇか!なんか町全体で俺をだましてるのかなぁ・・・でも、いいや。そうかぁ、アイドルってこんな感じなんだろうなぁ。この国だったら、俺も結婚できるかもしれないなぁ。』なんて、考えてた。
あまりのんびりしていると、いつChihuahuaに行けるかわから無いので、いいかげんにバスターミナルへ向かう事にした。
タクシーの運転手にスペイン語でバスターミナルへ行きたいと伝える事に失敗していると、英語がしゃべれるおばさんが助けてくれて何とかぼったくられもせずバスターミナルへ行く事ができた。
バスターミナルでもやはり、僕は注目の的だった。トイレとかでも変なおっさんとかに話し掛けれるが当然スペイン語が全くわからないので、『僕はスペイン語はしゃべれない』と言う事は伝えたと思うのだが、関係なくスペイン語でしゃべりかけてくる。
バスターミナルにはバス会社がカウンターを連ねている。ちょうど、空港のANAなどの会社が受け付けカウンターを並べているような感じだ。僕がChihuahua行きのバス会社を探していると、幾つか見つかったのだが、カウンターの向こう側からスタッフの兄ちゃんが、「なぁ、君、君。何処へ行くんだ?何処だ?」と英語で大声で声をかけてきた。僕はカウンターには近づかずその場で「Chihuahuaだよ」と答えると、「行くよ、うちのバスは行くよ。うちを使いなよ。」といった呼び込みをしてきた。僕は「待ってよ。他の会社も見てみたい。」と言いながら違うカウンターへ向かうと、その兄ちゃんは違う会社のカウンターを無視して僕と平行に歩きながら大声で、「いいよ、うちが一番安くする。495$(Peso)じゃなくて、470$(Peso)でどうだ?」と向こうから値段を下げてきた。「いや、それなら他の会社でもやってくれるだろ。450$(Peso)だ。」と返した。「よし、いいぞ。450$でも!」となった。ちなみに日本円で5000円くらいだ。メキシコにしてはとても高いが、ここでは一番安かった。
以外とその兄ちゃんは親切で何時に何番出口から出発と言うのを念入りに教えてくれたし、出発の時にも僕のところへよってきて、何番出口へ行けと教えてくれた。
バスには既に乗客が座っており、僕が最後だった。ここでもやはり乗客はみんな僕を珍しそうに見ていたし、若い女の子がグループでいたのだが、僕の顔を見て何やらひそひそ話をしはじめた。
果たしてこれほど愛想よく扱われた事があるだろうか。みんな親切で好意的で、ここは僕には天国のようだった。
Chihuahuaまではここから5,6時間南に走ったところだった。
Chihuahua
バスはメキシコの町を抜けて砂漠を抜けてChihuahuaへ向かうのだが、
メキシコの町を見ていると笑える事がいっぱいある。
まず、大きな交差点(渋谷の駅前ぐらいのところ)でも信号がついているところが少ない。じゃあ、みんなどうやって横断するかと言うと、人々はダッシュで、車はなんとなく譲り合いで渡る・・・
子供を抱っこしたおばちゃんが両方向で合計6車線あるような大きな通りをダッシュでわたる・・・
そのダッシュのせいか、野良犬も歩道を車に沿ってダッシュしているのが多い。
また、おじさん連中は30歳後半ぐらいからみんなちょび髭を生やし、大きなバックルが入ったベルトで、ジーンズにメキシカンハットと言ういでたち(ちょうどドンタコスのCMの人みたいなの)がほとんどだ。
女の人は普通な格好だが(と言っても、日本人の女性のようなおしゃれさも派手さも無い。ちょうど裕子ちゃんがツーリングの時にしているような服装)。
Chihuahua市に着いたのは、夜の11時ぐらいだった。
この時間になるとバスターミナルも町の中も誰も人がいない。
どこか泊まるところを見つけなければいけないので、まだやっていた売店のおばちゃんにさっそく、つたないスペイン語で「ホテル、どこか知ってますか?」と聞いたつもりだが、通じたらしくか見にホテルの名前と住所を書いてもらった。
そのメモをタクシーに見せてホテルへ向かったが、タクシーの運転手が英語が通じるホテルがあるのでそこはどうかと勧めてきた。なんか嫌な予感がしたが、運転手の勧めに従いその英語が通じるホテルへ向かった。
メキシコのホテルになると、普通の所だと日本の地方の怪しいビジネスホテルみたいな感じだ。もちろんHilltonなどもあるが。僕が最初に泊まったところは確か日本円で2000円ぐらいだった。これはどちらかと言うと高い。たぶん、外人料金なのだ。
タクシーの運転手はホテルの受付に紹介料をもらってたという点以外はまずまずな場所だった。
次の日の朝、さっそくChihuahua市を探検する事にした。この町には何にも観光の場所が無く、当然そんな事を知らない僕は地図も無くただ気の向くままに歩いてみた。
もう9:00過ぎだったが、町はまだ通勤・通学の余韻が残っていた。
やはりこの町でもみんなじろじろ僕を見る。中には車の中から大声で何やら声をかけてくるやつもいたり、すごい女の子は何やらメモを僕に渡してきて、電話をしてくれと言い放ってゆく子もいた。メモには電話番号と名前が書かれていたが、僕はスペイン語がしゃべれないと言う事必死で伝えたが、おかまいなしだった。
まだ朝ご飯を終えてなかった僕はさっそくスーパーへ向かった。
スーパーには警官が何人か配備されていて、かばんは警官に預けなくては入れない仕組みになっている。たぶん、万引き・強盗が多いのだろう。サンドイッチみたいなのとパンケーキとヨーグルトジュースを買ったが、さすが物価の安いメキシコ、全部で100円くらいだった。だが、音楽CD・ジーパンはアメリカと全く同じ値段だった。また、洗濯機はジーパンと同じ値段だ。洗う物と洗われる物が同じ値段・・・
この国の物価は変だ。タクシーやバスなどの移動手段は日本と値段。音楽CDとジーパンはアメリカの物価。食べ物と宿泊費はメキシコの物価。
やはりこの町の中心地にも教会と公園があり、人々が集っていた。
僕はその公園で朝食を取る事にした。朝食を食べていると、一人のおっさんが話し掛けてきた。そのおっさんは英語がしゃべれたので、いろいろしゃべってみた。当然おっさんの名前は忘れた。
僕とおっさんは昼ぐらいまでしゃべっていたが、一つ疑問があった。『この平日に昼間にこのおっさんは一体何をやっているんだろう?』
僕の疑問におっさんは「いや、仕事中だよ。今は休憩のためこの公園にきたんだ。」と答えた。だが、「でもさ、もう1,2時間くらいここにいるんじゃない?大丈夫なの仕事。」と僕はさらに質問した。
「仕事?大丈夫だよ。」と言っているそばから、公園の側道を走っていた一台の車が止まり、車の中から一人のおっさんが僕としゃべっていたおっさんに何やら叫んでいた。「あれは同僚だよ。あんまり休憩しすぎると、怒られるぞと言ってるよ。じゃぁ、もうそろそろ戻ろうかな」と、おっさんは僕に別れを言い仕事に戻っていった。
教会からしばらく歩くとアーケードがない商店街みたいなところがあった。
そこではメキシコの民族衣装を着たおじいさん5名がメキシコの楽器やアコースティックギターを使って音楽を奏でていた。それは新宿などのながしの連中とは違って、とても自然だった。町の中に溶け込んでいた。しばらくおじいさんたちの音楽に耳を傾けた後、さらに商店街みたいなところを先に進んでみた。すると車が走る大きな通りに来た。さて、どちらに向かおうか考えていると、制服を着た女子高生の一団がやってきた。
そして、その中の一人の子が英語で「英語はしゃべれますか?」と言ってきた。
日本で言うクリスチャン系の学校の女の子たちだとすぐにわかったので、『げっ、こんなところで宗教の勧誘かよ。』と思いてきとうに返事をして逃げようと思った。
「うん、少しならしゃべれる」と返すと、「何処からきたの?」と先ほどの子がまた質問してきた。
彼女の名前はカーラ。ショートヘアで身長は160センチに満たないくらいのしっかりした顔立ちの子だ。
もうお昼になっていたのだが、彼女たちは学校を追えて家に帰る途中だったらしい。他の子達の名前は当たり前のように覚えていない。カーラも彼女たちも英語は達者で、カーラは僕よりもうまいが、アルファベットの「C」の発音はスペイン語なまりで「ち」と発音する。そして彼女はそれが正しい発音だと思っているらしく、僕が正しい「C」の発音をすると「なんて発音してんだ!?」と言った顔をする。
総勢、6,7人いたのだが、彼女達が少しばかり町を案内してくれる事になった。と、いってもこの町は観光するようなところがない。カーラも「りょうはどうしてこの町に来たの?ここは観光するような場所がないわよ。」と言っていた。
町の役所や先ほど行った教会、彼女たちの学校も訪れ、カーラ以外の女の子はみんな帰ることになった。カーラは僕を食事に連れて行ってくれるらしい。
と言っても、学校帰りだったのでまず彼女の家に行く事になった。
彼女の父はなんと、政治家だった。州議会の議員らしい。日本は中央集権制なので、地方議会の議員はそれほど重んじられていないが、アメリカやメキシコなどの合衆国制、つまり地方分権制の国では地方議会、州議会は大きな力を持っている。そう、彼女はいいところのお嬢さんだ。ちなみに彼女の母は普通の人。
カーラの招きで、家の中に入らせてもらった。カーラのおじさんはコロンビアのマフィアのような感じで、カーラの話どおりぶすっとして言葉少なめだ。母さんの方は女の人にしては背が高く、こぎれいにした人だ。おじさんもおばさんもスペイン語しか話せないし、娘が突然外国人をしかも稀に見るアジア人を連れてきたことにやはり驚いているようだった。それでも、カーラの母さんはケーキやジュースを出してもてなしてくれた。
さすが政治家の娘なのだろうか、カーラは「私の尊敬する人」と言いある政治家の伝記を持ってきた。それは確か「チェ・ゲバラ」だった。
チェ・ゲバラはキューバ革命に貢献した一人だ。キューバ革命について簡単に説明すると、もともとスペイン領だったキューバだったが、ソビエトの対アメリカ政策(アメリカ本土に近いところに社会主義国を置けばアメリカへの牽制になる、われわれ日本もソビエトを牽制する為にアメリカに作られた国と言える)と社会主義ブームに乗って多くのタバコ栽培労働者(キューバの葉巻は世界一!また、もともとスペインの植民地らしい)を開放するために行われた。そして、キューバはカストロ首相を中心に社会主義国になった。肝心のチェ・ゲバラはキューバ革命を助けた後、南米へ移動し暗殺されたらしい。(僕もあまり詳しくは知らない)
キューバ革命についてはこの他にもたくさんの要因を持ち、たくさんの場所に影響を与えた。やはりメキシコも大きな影響を受けている。なぜ、キューバ革命が大きな影響を回りの国々に与えたかと言うと、当時、南米のほとんどの国は植民地であり南米の人々は奴隷だったのだ。
余談だが、世界で最も美人が多い国と言われるブラジル。なぜならブラジルの美人は白人・黒人・黄色人の血が混じっているからだ。しかしなぜブラジルには白人・黒人・黄色人・インディアンがいるだろうか?それは、インディアンしかいなかったこの国に白人が侵入してきて、奴隷として黒人を連れてきたからだ。そしてインディアンもやはり奴隷になった。それからしばらくして、日本は希望者を募りブラジルへ移民を出した。そう、芸能人のマルシアの家系にも日本人がいる。
イングランドもそう。以前に話したように、インド人・黒人もいる。彼らももともと奴隷や家政婦や召使だった。フランス・オランダにも黒人はいるが、彼らの先祖もやはり同じだ。ひどい事にオランダではいまだにあからさまに人種差別が存在する。
我々日本人は単一民族だが、複数民族の国にはちゃんと汚い歴史が存在する事を忘れてはならず、そして我々はそれを知らなければならないと思う。なぜなら、彼らインディアンや黒人・ラテンの人々は決してそれを忘れてはいない。彼らが人間以下の扱いから、一人の人間として存在を認めてもらい、文化を築いた事に敬意を払い、彼らの受けた扱いを二度と繰り返してはならないからだ。そう、我々は19世紀の白人になってはいけない。
カーラはゲバラについていろいろ語った。どういったところ尊敬し何がどうすごいのか、16歳の女の子とは思えないほど政治的な話だった。
当然、カーラは僕にも尊敬する人を訊ねてきた。確か「老子と孫子」をあげたと思う。
またカーラは僕の宗教についても質問してきた。彼女も、メキシコ人の多くも敬虔なカトリックなので僕のような無宗教者にとても驚く。そこで僕は「自分で作った哲学で生きている」と言った。すると、ぜひそれを教えて欲しいと興味深げだった。
「簡単にはいえないし、言葉で説明すると誤解を招く。だが、あえて言葉で説明すれば永遠回帰と言える。物事と言うのは常に繰り返される。それは歴史もそうだ。
そして、それはよりミクロの世界でも言える。例えば、最も貧しい人と最もお金持ちの人の差はじつに小さい。我々の事象は全て一つのリング状に存在し、例えば、お金持ちと言う点で言えば、最も貧しい人からお金持ちへずっとリング状を進むと最もお金持ちにぶつかるが、その最もお金持ちのさらにリングの先に進むとそこには最も貧しい人が存在する。つまり、金持ちと貧乏の差は気持ちの持ち様だ。お金持ちはお金で全てを所有するが貧乏人は気持ちで全てを所有する。貧乏人はあまりにも自分の所有がないために、全てのものを自分のものと思い込むことによりそうなる。しかしこれは最も貧しい人にしか得ることができない。なぜなら、少しでも所有がある人はそれに執着するからだ。その所有の所以に執着する。つまり、お金だ。これは他の事でも言える。
馬鹿と天才は紙一重と言うのもそれだ。知識に溺れてみなさい。知識のみを神としてみなさい。ある一点に到達すると、それを捨てる事ができる。つまり、馬鹿になるんだよ。天才がその時点で馬鹿になる。
権力もそう。ある一点に到達すると、それを捨てる事ができる。その時、世界一の権力者は世界で最も人の言いなりの人間になる。
他の事も全てそう。だが肝心な事はその一点に到達すると言う事。もし到達しなければ、そいつはずっとそこにいる。それが今君が目にする事ができる天才や金持ちや権力者だよ。ではその一点に到達するにはどうすればよいか?それを、知識、金、権力を神と信じることだ、そしてそれを証明しようとする事だ。
僕の哲学の基礎は『疑い』だよ。全てを疑え。自分、他人、親、兄弟、友達、法律、ルール、社会、習慣、人間そのもの。自分が見る、聞く、触る、感じるもの全て。
疑い、問い詰めた時、多くのものを失うだろう。時に友達も失うかもしれないし、自分自身も失うだろう。だが、それでもまだ残ったものこそ、真実であり自分自身だ。
と、僕は考えているしそうしてきた。」
と、僕の演説にカーラは黙って頷いて聞いていた。宗教を持ち、まだ16歳の彼女に僕の言葉は理解できない事は十分承知しているが、あまりその事を気にはしてなかった。
それから、しばらくしてカーラの母さんが僕が泊まるホテルについて聞いてきたが、「いえ、まだホテルは決めてません。」と言うと、手配をしてくれる事になった。
「メキシコは安全な場所とはいえないから。この間もホテルの壁をぶち壊して強盗が寝込みを襲ったらしいわよ。」と母さんは話してくれた。
ホテルの手配が住んだところで、カーラの両親はおばあちゃんの家に行く事になり、僕とカーラは食事に行く事になった。両親の車に乗せてもらい、レストランが建ち並ぶ繁華街までベンツで送ってもらった。(はじめてベンツに乗った!)
何が食べたと言われても、何があるかわからないのでとりあえずタコをリクエストした。
僕らが入ったレストランはメキシコ料理で、中にはまだ客は一人も折らず愛想のいいおっさんが出迎えてくれた。
料理はカーラに任せててきとうに頼んでみた。最初にハンドボールぐらいあるでかいグラスにトロピカルなジュースが入ったドリンクが出されてきて、これがとてもおいしかった。メキシコのタコはインドカレーのような具をトルティーヤ(タコシェル)にはさんで食べる。具やそれに添えるスパイスはたくさんの種類があり、日本で見かけるようなレタスやチキンをはさむタコはここにはなかった。
料理はとてもおいしかった。メキシコの小麦粉の匂いがいっぱいする。店員のおっさんは料理を運んでくるたびに、「おいしいですか?」と訊ねてきた。
そう、ここでカーラに聞いてみた。「メキシコに来てからというもの、みんな僕の事をじろじろ見たり、手を振ったりまるでマイケルジャクソンみたいな扱いなんだけど、どうしてだろう?」 「そうね、ここら辺ではアジア人は来ないから見たことないの。それにりょうはメキシコ人好みの顔ね。」 との事だった。
食事をしながらカーラはまたいろいろ語ってくれた。メキシコの歴史や国旗の意味について。もちろん僕は知っている話だが、驚いたのがカーラはまだ15世紀にスペイン人によってアステカが侵略された事を恨んでいたことだ。我々日本人にはわからないが、国を侵略されたと言う歴史はその国の人々にとっていつになっても許されざる行為なんだろう。
またカーラは日本の歴史についても訊ねてきた。天皇が以前は日本を支配していたが、今は象徴と言うあいまいな地位にいる事を説明したが、やはり象徴と言う地位については彼女には理解が難しいようだ。いつも政治や歴史などの話ばかりするカーラだが、やはり普通の女の子で当時ちょうど上映されていた「タイタニック」はとても感動したと絶賛していた。
レストランを出る頃にはすっかり暗くなっていた。腹いっぱい食べて二人で1000円くらいだったが、食事代はカーラが奢るといって聞かなかったが、持ち合わせがたりないということで銀行へお金をおろしに走っていった。この時はちょっと胸が痛くなった。いくら僕が旅人でカーラがホスト側であったとはいえ、日本との物価の差は歴然としている。それをカーラも知っているが。
それからホテルの場所までカーラが送ってくれる事になった。途中、カーラの友達に偶然会い、3人でホテルまで歩いた。ホテルは大きな通り沿いにあり、普通のモーテルだった。ホテルについた時にはもう21:00ぐらいになっていた。
そしてカーラと友達に別れを言った。せめてもの気持ちで、僕は彼女たちにタクシー代を渡した。
Hermosillo?
次の日の朝、ベッドの上で地図を広げさっそく次の目的地を探し始めた。次の町は、Hermosillo(エルモシーリョ)に決定。Chihuahuaから西へ山脈を越えた先、5、600km行ったところだ。
さっそく、どうやっていく事ができるのかホテルのおばちゃんとかに聞いてみた。
どうやら、Chihuahuaパシィフィコと言う電車で行くか、長距離バスとの事。ずっとバスばかりだったし、電車の方が安いだろうと思ったので電車で行く事にした。
ちょうど、ホテルから駅までは何時間か歩けばいけるらしいのでだいたいの道を覚えて出発した。
ホテルを出て2,3分歩いた時だった。通りの向こう側を歩いていたおっさんが、何やら僕を呼んでいた。『朝から、また何だって言うんだ』と、いぶかしく思いながらも、おっさんの話を聞いてみると、「どこにいくんだ?」と聞かれたふうだった。(この時既にフィーリングでスペイン語を解釈) 「Hermosilloへ電車で行こうと思って、駅に行くつもりなんだけど・・・」と言うと、「なら、ついておいで。俺は今から会社に行くんだけど、同僚が仕事で駅の方へ行くから乗せてってもらうといいよ。俺が話をつけてあげるよ。」と言うような事を言ってくれた。『おお、ラッキー!』とおっさんのお言葉に甘える事にした。
おっさんの同僚はなんと白人で英語がしゃべれた。「白人なのに、どうしてメキシコにいるの?」と尋ねると、「以前はアメリカに住んでたよ。だけどね、メキシコの方が気に入ったんだ。ちょうどスペイン語もしゃべれたし、仕事もあったから移り住んできた。」と白人のおっさんは答えた。おっさんの名前もご存知の通り忘れたが、とても人のよさそうなおっさんで映画「メジャーリーグ」に出てた監督さんみたいな感じだ。
駅についたが、ちょっと期待はずれだった。それはあまりにも寂れた駅だったからだ。ちょうどそれは北海道とかの田舎の電車が一両しかないような駅だったからだ。しかも、お客は誰もいなかったし電車も貨物しかなかった。まあとりあえず、電車賃と次の出発時刻を抑えなくてはと思い、スタッフがいる詰め所へ向かった。
やはりここでも期待はずれだった。電車賃が6000円もするのだ。何てことだ!実はこの時、残りがあと6000円くらいだったのだ。全財産投じてHermosilloへついても・・・
そこでバスで行く事にした。
なのでバスターミナルへ行かなくてはいけないが、駅からどうやって行くかわからなかった。とりあえず、大きな通りの方へ行こうと歩き始めたら、タクシーのうんちゃんに声をかけられた。ただ、もうあまりお金を使いたくなかったので、「300円しかない」と言ったら、「いいよ、それで行ってあげるよ。」と快諾してくれた。ただ行き先がうまく伝わらなかった。バスターミナル、バスディーポと言う言葉に似た言葉がスペイン語にはないようで、
バスとHermosilloと言う単語しか通じなかった。
すると、バス停に連れて行かれた。ちょうどバスが来たので何も考えずに飛び乗ったが、バスのスタッフが、「君、チケットは?」と言ってきた。僕は、「持ってないので、売ってくれ。」と言うと、「何処へ行くんだ?スペイン語は話せるか?」
「いや、スペイン語はわからないが、Hermosilloへ行きたい。」と、とにかくHermosilloを強調した。
「Hermosillo? Hermosilloは逆だよ。道路の反対側にもう一つバス停があっただろ。あれだよ。これはバスターミナルへ行くんだ。」
『がび〜〜ん』 そういえば、反対側にもバス停があった気がする・・・
「まあいい、バスターミナルからHermosillo行きのバスがあるからそれに乗ればいけるよ。」
「あ〜、でもこのバスのバス代はどうしよう?」と、僕は聞いた。
おっさんは「ああ、いいよ。一駅だから。いいよ」と言ってくれた。
『おお、今日はついてるぞ!』と、喜び沢山御礼を言っておいた。
バスターミナルでさっそくHermosillo行きのバス会社を見つけ、チケットを購入しようと値段を見ると、下げっ!4000円もする! でも、まあいつまでもChihuahuaにいるわけにも行かないので泣く泣くバスチケットを購入することにした。
出発時刻はすぐに来た。
バスにはChihuahuaに来る時のような少なさではなく、たくさんの人々が乗っていた。僕の隣には人相の悪い兄ちゃんがエロ本を読みながら座っていた。
最初は順調だった。
特に何事もなく平穏に進んで行くが、ChihuahuaからHermosilloまでには大きな山脈を越えなくてはならないくらいだ。
バスが山に近づくに従い、人里寂しくなる(周りは何にもない砂漠)が検問みたいなのが現れた。このときからやばくなり始めた。
検問をしているのはメキシコの州警察だった。二人の警官がバスに乗ってきて、一人一人出身地と行き先を聞いている。何を聞いているかわかっているので、答えるのは簡単だと思うだろうが、非常に難しい事が一つあったのだ。それは、『Japan』の発音だった。 カーラと話した時も他のメキシコ人と話した時もそうだったのだが、『ジャパン』と言う発音ではスペイン語圏では通じないのだ。これは日本に戻ってきてから知ったのだが、アルファベットの『J』はスペイン語で「ホ」と発音する。『Hermosillo』は『エルモシーリョ』と言うが『H』は発音しない。こんなこと知らない僕は、警官の「出身地は?行き先は?」と言う質問に、「ジャパン?ジャパン?」といってしまった。警官は怪しいと思ったのか、「バスを降りろ」と合図をして僕を一人バスから降ろした。
バスを降りるとそこには10人くらいの警官が待ち構えていた。日本の警官のようにぴちっとした運動しにくそうな制服ではなく、防弾チョッキに軍服のようなパンツで、『よく使っています』といった感じのガンフォルダーと、アメリカ製のガンで装備していた。みんな僕よりも背が低いが、筋肉は僕よりもありそうで訓練されている事がよくわかる。
みんなあっという間に僕を囲み、「スペイン語はしゃべれるか?」と質問された。
「スペイン語はしゃべれない。誰か英語をしゃべれる人いる?」と逆に質問した。
「いや誰もしゃべれないよ。君は何処から来た?」
「ジャパンだよ。」 「ジャパン?何処だそれは??パスポートは持っているか?」
「あるよ、ほれ」とパスポート手渡すと、僕の出身国に納得したようだった。そして、
「ここにはなんてかいてあるんだ?」とパスポートのあるページを指差した。
そこには、『この者は日本国にて保証された者である。よって、受け入れた国ではこのものを日本人として受け入れた国で身柄を保護する義務がある。』と言うような内容が英語で書いてあった。それをジェスチャーなどを使って何とか説明してみたものの、彼らの頭の上には『???』が並んでいた。
そしてある警官が、「日本は何処にあるだ?」と聞いてきたので地面に世界地図を書いて説明し始めた。するとさらに他の警官が、「おお、クンフーだ」と言い始めた。『クンフー?一体何のことだ???』と疑問の顔をしていると、その警官はブルース・リーのまねをし始めた。そう、『カンフー』のことを言っていたのだ。
そこで、僕は「カンフーできるよ。」というと、みんなに「見せてみろ」とせがまれた。
僕は警官たちに危ないから後ろに下がって広がってと合図して、ブルース・リーの物まねをして見せた。すると、「おおッ!!!」と驚きの声が! みんなまじめに驚いた顔をしている! 調子に乗ってさらに習った空手の型をも見せると、「おおおおッ!!!」とさらに。
結局カンフーの真似を見せて、この場は収まった。
バスに戻ると、これらを見てたほかのお客たちはみんな拍手をして僕を迎えてくれた。そして、「カンフーを見せてくれ」とここでもせがまれた。さっそくまたブルース・リーの真似をすると、「おおおっ!!すごい」と拍手喝采に包まれた。
隣に座っていた兄ちゃんが説明してくれたが、 この先の山脈には盗賊などがいるのでここら辺は検問が多いそうだ。
またしばらく行くと、 やはりまた警察の検問があった。
先ほどと同じように二人の警官がバスに乗ってきて、全員に身元確認を行っている。
が、さっきとは違う質問をしている。しかし「何処から来た?何処のへ向かう?」などと聞いているようではあったが、明らかにさっきと使っている単語が違った。
そして警官の質問する乗客が僕の番になった。ぼくは「あ・・・、えっと・・・」などと言ってしまったので、やはりまた僕だけバスを降ろされてしまった。
バスを降りるとやはり10人くらいの警官が待っていた。そして先ほどの同じようにパスポートのやり取りが行われ、僕が日本から来たと言う事が警官たちにわかった。
警官の中の一人が、近づいてきて何やら訳のわからない事を言いはじめた。僕は「何を言っているかわからないんだけど」というと、何やらジェスチャーをはじめた。僕の事を指差し親指と人差し指をこすっている。『ああ、お金か。そうか、日本のお金を見てみたいんだな。』と僕は理解し、100円玉と10円玉を見せた。そして、「これは100円玉と言って、US1ドルの価値があるんだ。そして、10円玉はセントコインと同じ感じ。わかる?」というと、警官はまたもや「????」マークをつけているようだった。『まあ、100円くらい上げてやろう。』と、その警官に110円を「US1ドルだよ」と念を押しながらわたした。その警官は100円玉を目線の高さまで上げて、不思議そうに見つめていた。そこで僕はまた「カンフーできるよ」を連発し、その警官たちの前でもブルース・リーをひろうした。もちろん、ここでも僕のブルース・リーは大受けだった!
気分よくバスに戻ると、他の乗客たちはまた爆笑しながら迎えてくれた。
それから数時間、バスは山道を登っていた。既に日は落ちて、山の道路はバスのライトしか明かりはなかった。全く真っ暗だった。月の明かりもなかった。
そして山道を数時間行ったところで、5,6人で乗車していた家族たちが急にざわめき始めた。どうやら、バスの運転手にここで降ろしてくれと頼んだいるようだ。しかし道路は何処にもバスの停留所もなければ、町の明かりも家の明かりもない。あるのは闇だけだ。だが、彼らの言いなりにバスは止まり彼ら5,6人の家族はバスを降りた。
僕はここでいろんな事を想像した。
『彼らは何か身の危険を察知して、バスから降りたのか。』『いや、彼らが山賊の仲間でここでバスを降りるということでバスを止めて仲間がバスを襲うのか。』『それとも、この先に何かあるのか。』・・・・
だが、周りの乗客はほとんど寝ていたと言う事もあり、誰も気にとめないが僕は降りた彼らを目で追っていると、バスの明かりにまぎれて彼らは猛ダッシュでどこかえ消えてしまった。『???一体何が起こるんだ???』 僕は一気に警戒態勢に入り、バスの周りをちらちら目を凝らした。
しかし何も起こらなかった。『しかし、一体なんだったんだろう。』 僕には今でも謎でしょうがない。
それからはいたって平穏で、夜中の11時ごろ小さな町に到着しバスの運転手も含めみんなで食事などの休憩に入った。
しかし、このあと僕の人生最大のピンチが訪れた。やはりまた検問に出くわしたのだが、相手は警官ではなく軍隊だったのだ。
軍隊の検問は 麻薬・銃火器などのチェックが主で、今までもこのメキシコに来てから何度かあったが荷物や荷物置き場のチェックにとどまり、人物チェックまでされなかった。
しかし、ChihuahuaからHermosilloへ向かう途中の山岳地帯での検問は別だった。まさに高速道路の料金所と同じものが設置されており、一台一台念入りにチェックが行われていた。後でわかったのだが、メキシコは以前も行ったとおり合衆国制のため、州単位で管理が行われているため州から州へ移動する時にはこのような検問があるのだ。
今までの検問同様に、一人一人の出身と行き先を尋ねIDのチェックまでされた。
さすがに3度目だったので出身と行き先は答えれえるようになったので兵士の質問には難無く答えることができたのだが、IDがまずかった。「IDを見せろ」との質問にすかさずパスポートを渡し、兵士は僕のパスポートの中をじろじろ読み始めた。
僕はちらりと顔色を伺うと、途中でいぶかしげな表情を兵士は見せるとバスを降り何処かへいってしまった。そしてボスらしき人間を連れてきた。白髪交じりのそのボスらしき人間はたぶん隊長か何かなんだろう、僕にパスポートの事でいろいろとスペイン語で質問してきた。が、スペイン語をしゃべれない事を伝えると、隊長はジェスチャー交じりで「ビザはどうした?」と尋ねてきた。『ビザ?そんなもんねえよ』と思いながら、ない理由を伝えた。
今となれば非常に怪しいのだが、メキシコ旅行の際には日本人は三日間の滞在ならビザがなくてよいらしいのだ。日本に戻ってからも調べたが、どの旅行書などにもメキシコにかかわらず、いろんな国で30日間の滞在ならビザはなくても良いと書いてある事があるが、そもそもそいつがいつこの国に入国したなんて何処にも書いてないのだからビザについて尋ねられるたびに『今日はまだ二日目です』と答えればよいのではないか?
ない理由・・・じつはEl Pasoの国境検問所でメキシコからアメリカに入る検問所のところでメキシコの警官にビザについて尋ねた事があった。すると、警官は「君は何人家?」と質問され「日本人です。」と答えると「じゃあ、いいよ。ビザなくても平気だ。」と言われてたのだ。僕はそれを大したことではないと思っていたし、実はビザって物がよくわかってなかった。ビザなんてなくてもいいものだと思っていた。
その『ない理由』を一応英語で説明すると隊長は英語がしゃべれないらしく、困った顔をし「とりあえず、君はここで待て。このままバスに乗せることはできない。今、英語をしゃべれるやつを呼ぶから、待ってくれ」となり、若い兵士が僕に代わって僕のバックを取ってきてバスは出発してしまった。
バスの中の乗客たちは笑いながら僕に手を振ってさよならを言ってくれた。『嬉しくねぇ〜』・・・・
そして、僕は荷物と一緒に犯人護送車のバスに一人軟禁された。その日の夜はとても寒かった・・・
『こうなると、いつ睡眠が取れるかわからない感じだな。とりあえず、寝るれる時に寝ておこう。』と思い、バックから着る物を取り出し厚着をしてバスの中で横になって眠り始めた。
何時間経ったかなんて想像できなかった。気づくとさっきの隊長に起こされた。
そしてさっきとは違う若い兵士がそばにいて英語で話された。「君はビザがないのだろう?なぜビザなしで旅行しているんだ?」
「さっき、この人にも説明したが、メキシコ国境の警官にビザについて尋ねたが日本人だから、ビザがなくても良いと言われたよ。」
「どの町からメキシコへ入った?」
「El Pasoだよ。Visaはなくても良いと言われたからそうした。」
「ふむ・・・そうか・・・」と若い兵士が僕の言ったことを理解すると、隊長に説明した。
すると二人で何やら話が行われた後、若い兵士が「とにかく、ビザがないのはまずいので君にビザを発行する。ここから一番近い町に今から行こう。ビザさえ発行すれば君は自由に旅をしてくれ。」と言われ、若い兵士と隊長と僕は若い兵士の車と思われる乗用車に乗り、検問所を出発した。
幸い、手錠も何もされず丁寧に扱われた。だが、かなり困った状況だった。
最大のピンチ
何時間か走ったあと、僕らは小さな町についた。もちろん、そこが何処かも何ていう町かも全くわからなかった。戻ったのか、進んだのかも。
そして何やら検問所のようなところへ連れて行かれた。そこには事務所があり、若い兵士がスペイン語の用紙を英語通訳してくれて用紙に必要事項を記入しビザが発行された。そして、「もうOKだよ。いいよ何処へいっても大丈夫だ。」と開放された。
その事務所の時計を見ると、『げっ!午前3:00!』とびっくりだった。
『一体この時間に知らない町につれてこられて開放されたって、こんな危険な国の夜の3:00を歩くなんて冗談じゃない。』
そこで、僕はこの事務所で朝まで過ごさせてもらう事を交渉した。しかし、答えはNOだった。「ここにはお金が保管されているので無理だ。」とあさっりこ断られた。
たぶん人生でこんなピンチは今までなかっただろう。まずい、非常にまずい状況だ。
何か打開策はないか・・・教会。僕が思いついたのは教会だった。『キリスト教の普及が大きい国だ。教会に神父さんがつめている事がありえる。教会に行こう。』
「ここから一番近い教会は何処?」と場所と聞くと、教会へ僕はすぐに向かった。
幸い教会はここから歩いて5分くらいの場所とのことだった。
だが教会に行く途中にクラブや飲み屋があり、クラブから出てきた若い連中に「おい、お前何人だよ?」と言う感じのことを言われたり、酔っ払いに訳のわからない事をいわれた。これらを無視して何とか教会にたどり着いた。
だが、目論見ははずれた。教会に神父は詰めていなかった。入り口を何度も叩いたり、窓の鉄格子から中をのぞいたが誰もいなかった。ここの教会はとても小さかったのだ。ちょうど今住んでいるうちのアパートぐらいの大きさだった。今まで見た教会は何処も新宿のアルタぐらいの大きさだった。
教会の周りには一戸建ての家が立ち並んでおり、教会の前には公園らしきものがあったがあまり移動するのは得じゃないと思い教会の周りで見つけたダンボールで教会の裏手に寝床を確保した。
この夜はとても寒かった事を覚えている。そう、メキシコは砂漠なので10月でも昼間はT−シャツで過ごせるが、夜は日本の12月ぐらいまで冷え込む。
さすがに眠れなかった・・・いや、寝てはいけないと思った。ひたすらじっと町の音に耳を済ませていると遠くからパトカーのサイレンがこちらに近づいてくる。
そして教会の前で止まるのが聞こえた。『ええ!俺か?』・・・
警官がパトカーから降りて何やら人を捕まえる音が聞こえた。ダンボールからそっと音がする方を覗き込むと、警官が酔っ払いみたいなのを捕まえていたが、その酔っ払いは暴れているようだった。とりあえず、僕ではなかったことにホッとした。
その後は何事もなかった。寝てはいけないと思いつつも、気づくと寝ていて 教会の表に人が集まっている音で目を覚ました。
ダンボールを片付けて僕は人がいる方へ行ってみた。
教会裏手から現れた外国人に人々は驚いた。僕は挨拶し、事情を説明したものの英語がしゃべれる人がおらずいた人々も困った表情をした。すると一人のおばさんが僕が日本人だと言う事を理解してくれて、「日本人夫婦がこの町でレストランを経営してるから、行ってみなさい。」と場所を教えてくれた。
そして僕は教えれくれた場所へ向かうことにした。
教えてもらった日本人が経営するレストランは、教会から近いとの事だった。
『XX通りまで行ったら、右に曲がり3軒目にレストランがあるよ』と言われたものの、そんな通りは行けどもわからず30分ばかりうろうろした挙句、教会に戻ってきてしまった。
完全に路頭に迷ってしまった。
何処に行っていいかもわからないし、何処にいるかもわからない。
とりあえず、教会の前にある公園で作戦を練ることにした。
適当にベンチに腰掛け『まず、現在地を知らなくてはいけない。それから・・・』と、あることに気づいた。
残り2000円くらいしか持ってなかった。いくら物価の安いメキシコとはいえ、交通手段の物価は日本とかわらないのでこれでは移動ができない。
『よし、人生初のヒッチハイクをやってみよう!最終行き先は・・・Tijunaだ。』
Tijunaはメキシコの最も西にある大きな都市で日本人が『メキシコ行った事あるよ。』
と言うとほとんどが、Tijunaかアカプルコかカンクンだ。この3都市は何処も観光地で整備されており、メキシコの匂いが少ない場所だ。個人的にはハワイやグァムのようななんちゃって外国と馬鹿にしてる。
アカプルコとカンクンはメキシコ人も認める場所だが、Tijunaはメキシコ人は誰も認めない都市だ。なぜなら、TijunaはアメリカSanDiegoとの国境都市でありアメリカが作った都市らしい。
しかしなぜそんなところを目指すかと言うと、現在地はまだChihuahuaからそう離れたところじゃないと推測すると、Tijuanaまでは1000km以上はあると思える。あと、一週間ちょっとで日本に戻るので、これからヒッチハイクでLosAngelsまで戻る事を考えるとちょうど良い目標値と思ったのだ。
と、考えていると僕の方に二人のメキシコ人のおっさんが近づいてきた。
一人は太っていて、もう一人は普通の体格だ。二人ともどう見ても普通の人ではなさそうだ。そう、彼らがマフィアかそれ系の人だというのはすぐにわかった。『やべぇ〜、ここは逃げるべし』と、広げた地図をしまってゆっくりベンチを立ち上がった瞬間に、そのおっさん二人に声をかけれらてしまった。『まず〜い』
「おいおい、お前何処へ行く?」と言うような事を言われて、素直にベンチに座ることにした。おっさん二人は僕の隣にそれぞれ座り、僕は二人のサンドイッチ状態だ。
「君は何人だ?」
「日本人だよ。」「日本?・・・・ああ〜、中国の隣の国か。一体こんなところで何をしてるんだ?」
と、英語とスペイン語での会話が始まった。不思議なもので言葉が全く通じなくてもなんとなく言っている事がわかるのだ。
見た目には以外にも、とても気さくなおっさんたちで今までのたびの事や僕の両親は心配してるんじゃないかとかいろんな事を話した。
おっさんたちは教会が目的だったらしい。
おっさんたちのおかげで現在地がわかった。ここはAgua Prietaと言う町らしい。
Agua PrietaはChihuahuaとHelmosilloのちょうど中間ぐらいにある場所で、アメリカ国境近くの町でもあった。
おっさんたちに、これからヒッチハイクでTijuanaまで行く事を言うと「お前、途中で死んじゃうぞ」と脅された。「お前、朝ご飯は食べたのか?」
「いや、まだだよ。と言うか昨日から何も食べてない。」というと、太ったおっさんのほうが痩せてるおっさんに方にお金を渡してどこかへ行かせた。
痩せてるおっさんは戻ってくると手一杯にメキシコ式のフランクバーガーとサイダー(サイダーはメキシコでもそのまま通じる単語だった)を持ってやってきた。
そして僕にそれらを全て食べるように言ってきた。
このときはとても嬉しかった。僕はたくさんお礼を言いながら半べそかきながら4,5個あったフランクバーガーを食べほした。
いきよいよく食べた僕を見ておっさんは「お代わりするか?」といい、僕は「うん」と嬉しく答えた。そしてまたフランクバーガーを買ってきてくれて食べさせてくれた。
このときのフランクバーガーはとてもうまかった。おっさん二人の名前は残念な事に忘れたが、彼らの事は決して忘れないだろう。
そしておっさんたちはもう行かなくてはいけないということで僕らは抱擁して別れを言った。だが痩せたおっさんは「バイバイ」を言ってもすぐに行かず、僕に目をじっと見てお財布から数枚の紙幣を出して「旅費にしなさい」と言い、去っていった。
僕はしばらく立ちつくしていた。ただ泣いていた。嬉しさと申し訳なさで泣いていた。
そう、我々日本人は例えフリーターの身でありながらも彼らメキシコ人が稼ぐ数か月の給料を一ヶ月で稼ぐ事ができるのに・・・
Tijuanaへ向かうと言ってもここでTijuana行きの看板を出しても、東京で福岡行きといったヒッチハイクの看板を見せるようなもので、漠然としすぎている。そこで、このAgua Prietaから一番近い西の町を持ってきたスケッチブックに書き込むと、車が多く走りそうな通りを探した。
公園を出てすぐに一人のおっさんを見つけたのでさっそく尋ねてみると、「その町はあっちの方角だが、かなり遠いよ。」といい、しばらく考えて「家においで」と言われた。
『う〜ん、でもこのおっさんなんか怪しいと言うか変だなぁ〜』
おっさんの見た目がちょっとみずぼらしかったから、頭から怪しいと決め付けてしまっていた。確か、ちょっときたなめなジーンズに地味に紺色のシャツをきていた。
『どうだろう、マジで助けてくれるのか?それともカモられてるのか・・・』
この時僕はとても悩んでいた。行くべきか行かぬべきか・・・
それを見たおっさんはとぼとぼと自信なさげに歩き始め、30メートルくらい行くと振り返り「ついておいで」と言ってきた。
とりあえず行ってみる事にした。悪い人ではなさそうなのだが、何か不安なのだ・・・。
10分くらい歩くと、「ここだよ」と言っておじさんはある建物郡の中に案内してくれた。
歩いている間は「俺の兄弟(もしくはいとこ)がTijuanaまで行くから車で一緒に載せてもらえるように交渉するよ。」というようなことを言っているようだった。 なぜか、この時はおっさんが何を言っているのか全然わからなかった。
今までスペイン語で話し掛けられても不思議にも心と言うか体が大体の意味を解釈してみせた。おっさんの話にはなぜか全くわからなかった。
建物郡は外から見ると一つの大きな屋敷のように見えたが、大きな中庭を囲んで一階建てのアパートが5,6軒囲んでいると言ったものだった。建物郡の入り口付近では何人かの男の人が車を修理しているようだった。おっさんはその人たちに僕を紹介し、僕と彼らはお互いに挨拶をして中に案内された。
おっさんの家なのだろうか、建物郡の中の一つのアパートに入れられた。その中には子供たちが5,6人いて、みんな4,5歳と言った感じだ。子供たちはそれぞれ椅子に座ってテレビを見ていた。突然の外国人の訪問に驚きと興味深げな表情で僕を見てたが、特に話し掛けるような様子もなく僕にも一つ椅子が用意された。
おっさんは「とりあえず、テレビを見てて」と言うような事を言って何処かへ消えてしまった。そしておっさんがいなくなった代わりにおばさんが(おそらく奥さんだろう)来て、僕に何か言うのだがやはり何を言っているのか全くわからなかった。ただ何か怒っているような感じだ。おばさんは小太りでやはりみずぼらしい格好だった。
もう僕の不安は絶好調に達した。
この時ばかりはなぜか何を言っているかわからないし、これから何が起こるか全く想像できなかった。『やばい、どうしようか・・・・』
結局僕はこの家を立ち去った。
すっと立ち上がって荷物を持ち、普通に玄関を出て行った。そして今来た道を歩き戻り、5分くらい歩いたところで後ろからさっきのおばさんが車で追っかけてきた。
おばさんは車の中から何かいろいろ僕に言ってきた。だが、何を言っているのか検討もつかなかった。とりあえず、黙って聞いていたがしばらくするとおばさんはしゃべるのを止めて車をユーターンさせ、戻っていった。
彼らは何を言いたかったのだろうか・・・・・
この出来事の解釈はとても悩んだが、僕は日本に戻ってからこう解釈した。
『おっさんは性格上口下手な性格だがおばさんはとても勢いのある人間だった。おっさんは僕を助けようとしてくれていたのだが、彼の口下手さと弱気な性格による申し出が僕には身の危険という不安につながりいつもはフィーリングで会話が成り立ったのだが成り立たなかった。そしておばさんはスペイン語もしゃべれないでヒッチハイクをするんじゃないと僕を怒っていたのではないだろうか。
仮に僕を襲う気であればいくらでもチャンスはあった。家に入った時点でそうすべきだろうし、今から襲う相手をわざわざ子供たちに引き合わせるのは不自然すぎる。
また今までのであった人たちからみても、これから会った人たちから考えても。』
20分くらい町をうろうろした挙句、線路を見つけた。線路沿いに歩くと踏み切りがやはりあったのでその踏切で僕はヒッチハイクをはじめる事にした。踏み切りに外人が立っていれば目立つだろうからだ。
何台か車が通り、不思議な顔で僕をみんな見て過ぎ去っていった。ヒッチハイクを始めて数分後、若い男の子たちが乗った車が目の前に止まった。『やばいかなぁ』と思ったが男の子たちは「その町はあっちの方向だよ。ここは方向が違う。」と教えてくれた。
そして「がんばれよ」みたいな事を言われて彼らは去っていった。
彼らの教えに従いヒッチハイクの場所を変えて、10分後だっただろうか。一台の車が止まった。中には中年のおじさんが乗っており僕はすぐに車にかけより交渉すると、快諾してもらった。『おお!人生初のヒッチハイク、20分でゲット!』と 気分高らかにおじさんの車に乗り込むと、おじさんは車をユーターンし始めた。
『あれ??逆方向じゃないのか?』とおじさんにそう話すと、おじさんは「今から、僕の家に行く。僕は今会社に行く途中だった。英語がしゃべれるのか?」と言った。
そしておじさんは携帯電話でなにやらしゃべり始めた。
ちなみに、メキシコで携帯電話を持っているのは非常に稀だ。おそらく値段も大きさも日本が携帯電話を出した当初とかわらないものだ。
おじさんは『一人の男の子乗せたよ。今から家に一度戻る。英語をしゃべれる人を探してくれ』というようなことをしゃべっているのがわかった。他にもいろいろしゃべっていたが理解できたのはこれだけだ。
メキシコ人
車で20分くらい行った所に振興住宅地みたいなところに入った。
その一画におじさんの家はあった。おじさんの招きで家に案内されると、奥さんと娘さんが出迎えてくれた。どうやらさっき携帯電話で話をしていたのは奥さんだったらしい。
娘さんは中学生くらいだろう、やはり外国人の突然の訪問に驚いた顔をしている。
娘さんは学校で英語を習っているので通訳になってくれたが、彼女の英語は僕よりも未熟だったので4割ぐらいしか話が通じなかった。
おじさんは「こんなところでヒッチハイクは危険だよ。なぜそんなことをしてるんだ?」と言うので答えたが、娘さんの英語力では僕の旅の経緯を話してもスペイン語で話せなかった。
そんなことをしていると一人のおばさんがやってきた。おじさんと奥さんは35くらいだが、そのおばさんは50くらいの人で英語が話せるとの事だった。
そしてそのおばさんを通して、なぜこんなところでヒッチハイクをしているのか、なぜ軍隊に捕まったか、どうしてTijuanaを目指しているのかを語った。
やはりおばさんにも怒られた。「まあ、ビザの事はしょうがないにしてもどうしてヒッチハイクするの!メキシコはアメリカよりも危険なんだよ。全く・・・・もし警察にヒッチハイクをしているのが見つかれば捕まっていたんだよ!」
ちょうどお昼の時間だったので彼らは昼をご馳走してくれた。
そしておじさんはおばさんの英語を通して「ここからアメリカはPhenixが一番近い。もうメキシコを出てアメリカに戻りなさい。少なくともアメリカの方が安全だから。Phenixまでは僕らが連れて行くから。」と言ってくれた。
「ありがとう。」と御礼をしたが、「だが、僕らはアメリカに入ることはできない。メキシコ人だから。なので、そこまでの旅費を出すからそこからは自分で何とかしなさい。」
「いえ、それは受けれない。それにどのくらいかかるの?」
「500ペソだよ(5600円くらい)」 もちろん、メキシコで5600円は大金だ。日本で言う2,3万円くらいにあたるだろうか・・・そんなものを受ける事はできないと、「無理だよ!そんなお金は受け取れない。なら歩いてPhenixにいくよ。いいよ。絶対受けれない。」
と断るが、「いや、受け取りなさい。」と頑として譲らない。そこで僕は「じゃあ、僕が日本に帰ったら必ず返すから。」と申し出た。だが今度はおばさんが「聞きなさい。これはわたし達があなたに送るのではないのよ。神様があなたに送るの。だから私たちには関係ないのよ。」
そんなことを言われて僕は泣き出してしまった。
泣きながら「ありがとう。」とお礼を言うが、おばさんは「わたしたちにお礼を言うんじゃないよ。神様にお礼を言いなさい。」と言うだけだった。
そして彼らは僕を国境まで送ってくれた。
彼らはなんとUSドルでお金を用意してくれた。
おじさんは「じゃあ、僕らはここまでしか送れない。後は君が一人で歩いてゆきなさい。」 「はい。ほんとにありがとう。」とここでも泣きはじめてしまった。
おじさんたちは僕が国境を越えてもまだ手を振りつづけてくれた。僕は国境のゲートをくぐっるとすぐにアメリカとメキシコを分かつ金網の所に行き家族たちに大きな声でgracias(ありがとう)を連発した。
アメリカへ
Phenixのバスターミナルに着いたのは、その日の夕方だった。
Phenix行きのバスは、実はPhenixには行くバスではなかったのだがバスの運転手が僕に気を使ってPhenixまで送ってくれた。そのバスが何処行きなのかは全く知らない。そのバスはPhenix行きではないのでバスターミナル内で僕は降りることは許されなかったので、バスの運転手はバスターミナルの一般車両進入口へ送ってくれた。ずいぶん贅沢なリムジンだった。
もらったお金でPhenixまでのチケットを買ってもまだ余っていたので、その金で夕食とばかりにTacoBell(Tacoのファーストフード店、日本では数年前まで名古屋でのみあったらしい)で注文を取った。
店員の女の子はメキシコ人かメキシコからの移民だったので、さっそくスペイン語を使ってみた。すると、「おお、スペイン語ね?あなた、スペイン語しゃべれるの?」
「いや、今メキシコから戻ったばかり。少し覚えたのでチャレンジしてみたよ。」
と、気づくとここのTacoBellの店員の女の子はみんなメキシコ系だった。
スペイン語を使ったのが気に入られたようで、注文以上の品々がでてきた。
「あれ?こんなに頼んでないけど・・・」「マリアが多めに作ったのよ。気にしないで食べて。」と、先ほどの窓口にいた女の子はキッチンでTacoを作っている女の子を指差して笑った。僕はそのキッチンの女の子に手を振ってスペイン語で御礼を言った。
こんなところにまで来てメキシコ人に助けられるとは思いもよらなかった。
しかし、ここから問題だった。どうやって西海岸(LosAngelsやSanDiego、Tijuanaがある方向)へ戻るか。
そこで思い切ってバスターミナルのスタッフのおばさんに相談してみた。すると、「あんた日本人?」「うん。」
「だったら、お金をおろしたらいいんじゃない?ほら、そこに三和銀行と住友のディスペンサーがあるわよ。」
な、なんと、アメリカにも三和銀行と住友があった!!
後から知ったのだが、日本でCitiBankを見かける確率よりも三和銀行がアメリカにある確率のほうが高いらしい。
といっても、僕の口座にはお金はないのだ。なのでキャッシングを行いとりあえず、1万円ゲット。
PhenixからSanDiego行きのバスに乗り込んだ。到着予定時間は明日の朝9:00時だ。僕はバスの後ろから3番目の席に乗っていて、乗客はまだらだったが一番後ろに座っている白人の男は目立っていた。
なぜなら、マリファナでらりっていたからだ。
バスに乗ったときにはマリファナは吸っていなかったが、彼はとてもマリファナ臭かった。
バスはSanDeigoの少し手前で休憩と検問に入った。アメリカでも州境で検問だった。ボーダーガードがバスの乗客一人一人に出身地と行き先を訪ねてIDをチェックする。ここはアメリカ、英語なので僕は難なくパスできたが、一番後ろでマリファナでらりっていたやつは・・・「何処出身かね?行き先は?」とのボーダーガードの質問に彼は、「出身はワシントンです。今からNewYorkへ行きます。」と普通に答えた。
それを聞いてボーダーガードだけでなく他の乗客も爆笑だった。
そう、彼は東海岸へ向かうのだが、バスは西海岸行き。そして彼は荷物を東海岸行きのバスへ乗せてしまっていたらしい。ちなみに彼の荷物と彼の現在地の距離は札幌と福岡ぐらいあるだろう・・・・
もちろん彼はその場で下ろされ、Phenixへ戻るバスを待つことになった。確か、夜中の4:00ぐらいの事だった。
SanDiego。そこは映画「トップガン」の舞台にもなったところでもあり、EaglesのHotel Califollnia の本物がある所でもあり、メキシコで目指したTijuanaの隣接した町だ。ここの治安のよさは評判がよく、アメリカも観光地として外貨を儲けたいのでかなり一生懸命治安に取り組んでいるらしい。
僕は9:00ごろにこの町へ到着し、すぐにユースホステルへ向かった。
『とりあえず、ここでゆっくりしよう。予定より早く着てしまったからな。』
ほんとはメキシコで日本へ出発する三日前まで滞在していようと思っていた。が、メキシコにはたったの三日間しか滞在できなかった。
そう、前回までのメキシコでの出来事はたった三日間に起きた出来事だ。
『ここには一週間ばかりいよう。で、あまり外出は避けたほうがいいな。また誰の世話になってしまうかもしれないし・・・』
ユースのフロントで一週間分の滞在費を払い、指定された部屋へ向かった。
SanDiego
SanDiegoでは、とても静かに過ごした。
ここには一週間ばかり滞在したが,動物園に行ったりTijuana(メキシコ)へ行ったり,
ビーチに行ったりした。
ここのユースではとても面白い連中が揃っていた。
同じ部屋に二人のスウェーデン人と一人のイングランド人がいた。
その二人のスウェーデン人はとても几帳面で洋服や靴をいつもきちっとしていた。といってもそれにはちゃんと理由があるのだ。スウェーデンでは徴兵制があり,2年の兵役を課せられる。我々日本人にはとても異文化な話だろう。台湾にもあるし、イスラエルにもある。これはとても重要な意味がある。それは、徴兵制がある国はそのほとんどが常に戦争を意識していなくてはならないと言う事だ。
今は平和そうで経済成長を遂げた台湾においてもいつ中国と戦争になるかわからない。イスラエルにおいては戦争はすぐ近くの話だろう。
フィンランドにも確か徴兵制があるが,なぜ北欧の国々が徴兵制があるのかは僕は知らない。もしかしたら、第二次大戦の対ナチへの名残なのだろうか・・・???
そしてこの二人のスウェーデン人はとてもテキパキとしゃべる。それが僕とそのイングランド人にはおかしくてしょうがなかった。日本語だとこんな感じ・・・・「はいっ!ぼくらはすうぇーでんしゅっしんですっ!」
「はいっ!夕食は僕たちも作ろうと思ってますっ!」「はいっ!飲みにいきますっ!」
この彼らのしゃべり方はユース内のほかの連中にも話題になり,僕とイングランド人は他の連中によく物まねをして遊んでいた。
他にはスペインから来た3人組もいた。一人はミゲル。その他の二人は忘れた。
ミゲルはやせててひょろっとした感じで眉毛が繋がっており,声がガラガラ声だ。で,いつもしゃべる時に「ゲッ〜ゲ」とと言う。「ゲッ〜ゲ,楽しいなぁ」「ゲッ〜ゲ,酒のもうよ。」みたいな感じだ。最初はその「ゲッ〜ゲ」を一所懸命訳したが,訳せず困った。
だが彼はスペインのマジョルカ島では有名な庭師なのだと言う。他の二人は一人は林やこぶヘイみたいな顔をしているやつは大学生で,もう1人はジャイアンによく似た顔で彼はホテルマン。
彼らアホみたいに面白い連中だった。スペイン語をしゃべっていたので僕がスペイン語で挨拶をしたのが友達になったきっかけだった。
またオーストリア人の女の人とも友達になった。彼女の名前はマリア。簡単な名前だったのですぐに覚えられた。彼女は30歳くらいで背が高くこぎれいでいかにもオーストリア貴族の出身のような高貴な雰囲気がある。彼女は英語の勉強でアメリカに来ているという。それがよくわかるのが彼女の英語の発音だ。あれほど綺麗な発音は聞いた事がないし,彼女は誰の何処のなまりの英語でも丁寧に耳を傾ける。
ここにもやはり日本人はいたが、ここの日本人はとても気さくな連中だった。
二人の女の子と友達になった。ゆき子とゆきえで二人とも大阪出身で一人でアメリカにきたらしい。名前が似てるし背丈も同じなのでどっちがどっちだか最後まで判別できなかった。
ユースなのでみんなで食事を作ったりするのだが,それぞれ各国の宿生活が伺える。スウェーデンの二人はカップヌードルゆでてお皿に乗せてその上にソーセージを乗せた食べ物。スペイン人は卵とジャガイモを混ぜて焼いたジャガイモオムレツを。オーストリア人のマリアは普通のサラダとグラタンのような食べもを。僕はホワイトソースのスパゲティーを出した。ホワイトソースと言ってもスーパーでかんずめが売っているのでそれを牛乳でといただけのものだが,ゆきえとゆき子やマリアには驚かれた。こうやって毎晩,みんなで盛り上がって楽しむ事ができた。
しかし五日目、僕らに別れの時が来た。
その日,ゆきえとゆき子はサンタ・モニカに移動した。二人とも僕と同じような時期に日本に戻るらしい。日本に戻る,日本から来る人はたいがいこのサンタ・モニカでまずは一泊する。僕もSanDiegoからゆく次の町はサンタ・モニカだ。サンタ・モニカに2泊してロスの空港へ向かう予定を立てていた。
そしてミゲル達スペイン人もこの日の午後出発した。彼らはこのアメリカ西海岸から反対側の東海岸へN.Yへ向かう。そしてそこからスペインへ帰る。合計16時間くらいかかると言っていた気がする。
ミゲルは帰る直前に僕を彼らの部屋に招待してくれた。そして、ミゲルは僕に彼のコレクションであるスペインフットボールリーグの全ユニフォームを見せてくれた。
そう,彼は全ユニフォームをトランクケースに入れてわざわざ持って来たのだ。他の二人はその行為をアホだと馬鹿にして笑っていた。まあ,そりゃぁ当然だなぁと思う。
そしてミゲルは「りょうに一枚上げよう」と言い始めた。 彼とはよくフットボールの話をして盛り上がっていて,かなりのフットボール好きなことが知れていた。
日本では「サッカー」というが、僕は「フットボール」と呼ぶのは実はミゲルの影響だ。ミゲルは「サッカーとはアメリカの言い方だよ。ほんとはフットボールというぞ。イングランドでもフランスでもイタリアでもフットボールだぞ」
そんな彼が記念にとユニフォームをくれると言うのだが,これは丁寧に断った。せっかくの彼のコレクションを台無しにするわけにはいかない。だが,スペイン語圏の人間は一度言い出すとなかなか聞かないものだ。そこで今度必ずマジョルカ島を訪れると言う事で住所とメールアドレスを交換して,彼らを見送った。
そして,SanDiegoを訪れて一週間後,僕もこのユースホステルを出発する日が来た。マリアは英語の勉強(半年留学をしている)のため当分滞在するらしい。(ユースではマンスリーアパートのような使われ方もしている。)
スウェーデン人たちはあと1日滞在した後には,オーストラリアへ旅行に行くらしい。
ずいぶんとリッチなものだ・・・
マリアとスウェーデン人の見送りを受けて僕は、アメリカ最初の訪問地サンタ・モニカを目指した。その日はちょうど日曜日だった。
SantaMonica再び
ついに僕のアメリカ・メキシコの旅も終わりに近づいてきた
最初の場所でもあり最終の場所でもあるSantaMonicaに戻ってきた。
僕は最初に泊まったユースホステルに行き手続きをして荷物を置いて,すぐにベニスビーチへ向かった。
ベニスビーチはサンタモニカの南の部分のビーチを指す。そこは日曜日になると毎週のようにお祭り騒ぎをしている。綺麗な砂浜が広がり,砂浜沿いにはランニングできる道がずっと続いておりその道に沿ってたくさんの露店が並んでいる。ランニングロードはローラーブレードで走っている人や水着のような格好で走っている人などさまざまで,とても11月とは思えない風景だ。露店も飲み物,食べ物からマッサージの露店,占いの露店,黒人二人が漫才をやっていたりといった感じだ。
ランニングロードを歩いてゆくと,ビーチで10人くらいのパーカッションを持った人たちが丸く輪になってセッションを行っていた。
それはとても楽しそうだったので、僕もその人たちの周りに座って聞いていた。
すると,いつのまにか1人のメキシコ人のおばさんと黒人の男の人がその輪の真中で踊り始めた。そして、パーカッションの人たちもどんどん増えて20人くらいになり,踊る人も増え始めた。
当然そんなのを見て参加しないわけは行かない。
さっそく僕もその輪の真中で踊り始めた。どうやらお互いに見知らぬ人々だったようだが,すぐにみんな知り合いになった。すると僕らのパーカッションの輪の周りには数十人の人々が見物していた。その中には参加したそうな顔をしたやつもいた。
眼鏡をかけた僕より少し背の低い白人のやつとその隣にいたそいつと同じくらいの白人の女の子が参加したそうな顔をしていたので,手を引っ張って輪の中に入れてやった。二人はどうやら見知らぬ人同士だったようだ。(僕はてっきりカップルだと思っていた)また,彼らは普段はこういうことはしないようで踊り方が何処となく不自然だった。
気づくともう夜だった。
酒を持っていたやつはみんなに配りだし,一番最初に踊っていた黒人のやつはマリファナを持っていたらしく,僕に何本かくれた。そしてそれを僕は他のやつに分け,もうみんなのテンションはどんどん高まっていた。
そして、海からヘリコプターが低空飛行でやってきて僕らをサーチライトで照らして盛り上げた。そうなると僕らのテンションはさらに高まる。
そしてそのマリファナをくれた黒人のやつが「ラストセッションだぁ!」と叫び,パーカッションのやつら,踊っているやつらもみんな「オー!!」と叫びパーカッションのボリュームとスピードが高まり、もうこれ以上ないといったところでパーカッションの音が一気に収まった。そして踊っている連中も動きを止めて,歓声と拍手が鳴り響いた。気づくと,おっさんやおばさん黒人や白人,日本人ん(僕だけだったが),いろんな人が踊っていた。僕には音楽1つで年齢も文化も人種も違う人たちが1つになって楽しむ事ができた事にとても感動した。
みんな「じゃあ!またね!」とそれぞれ声をかけておのおの去っていった。僕はランニングロードをユースホステルの方へ戻っていった。もう既に夜の9:00ごろだったようだ。
さっき踊っていたビーチから離れてすぐ,後ろから誰かが僕の事を呼んでいる。ふと振り返ると,さっき踊りに加えた僕よりちょっと背が低い眼鏡をかけた白人のやつだった。「おお,さっきの人!」と僕は返事をした。
「なぁ,君は何処へ行くんだ?」 「僕は旅行者なんで,この先にあるユースホステルへ戻るんだよ。ユースに泊まってるんだ。」
「そうか。何処からきたんだ?」「日本人だよ。君はサンタモニカにすんでいる人?」
「いやサンタモニカではないよ。パサディナさ。でもアメリカ人じゃないんだ。」「ほんと?」
「ああ,僕はイタリア人だよ。」と僕らはユースホステルの方へ戻りながら話した。
「なあ、りょう。よかったら今から食事に行かないか?まだなんだろう?」
「うんまだだけど、でもいいよ。もうお金もないし。」
「いいって。お金は。奢るから。」と彼は食事に誘ってくれた。見た目はひ弱そうなやつだが、お金は持ってそうだったので日本人だからと言ってお金目当てに襲ってくるような感じはなかった。彼の名前は確かマリオと言った。マリオの車はランドクルーザーみたいなやつだったので、『まぁ,金目当てではなさそうだな。あるとしたらゲイくらいか?』と軽く考え,彼の申し出を受ける事にした。
「でもさ、何処へゆく?」と僕が質問すると、
「そうだな。むしろりょうは何を食べたい?」 「う〜ん、そうかマリオがイタリア人ならイタリアンでどう?」 「いいよ。うちの近くにいいところがあるよ。」
と、彼の住むパサディナの方へ行く事にした。
パサディナはLosAngelsでは北の方に位置する町でサンタモニカからは車で1時間くらいのところだ。 一応観光できる所はあるようだが,それは日本に戻ってから知った。「家と言うか、僕は下宿しているよ。他に下宿の人がもう1人いる。それと犬も一匹飼っているよ。」とマリオは言った。「家に一度戻って犬に餌をあげてきてもいいかい?」 「ああいいよ。」
マリオの家は住宅街の中にあり、2階建てのよくありそうなアメリカの家だった。「今は家の人はいない。もう1人の下宿人を紹介するよ。」と、1人の男の人を連れてきた。
彼の名前は忘れたが、ブラジル人で見るからにゲイだった。なぜ「見るからに」と言うかと言うと、仕草が全て男らしさがなく『柔らかい』のだ。ちょうど美川健一とおすぎを合わせたような感じの人だった。そして犬は何犬かはわからないがドーベルマンのように毛が短かいが大きな人懐っこい犬だった。
犬の散歩の後僕らはさっそくレストランへ向かったと思ったが、マリオは銀行へ運転した。そして「ちょっと待ってて。」といい、新品の20ドル札を下ろしてくると、「りょう、これを受け取って」とお金を僕に渡した。「はぁ?なんでお金をくれる?」「旅行中なんだろ。お金が何かと必要だろう。旅費にしてくれ。」「まあ確かにお金はないけど、いいよ。いらないよ。受け取る理由がない。」 「いや、これは僕があげるのではない。神様が君にあげるのだ。」 「・・・・」
それはついこの間も聞いた台詞だった。『神様が・・・』これを聞いては僕は何の反論もできなかった。僕ら日本人は無宗教と言われ宗教を軽蔑・軽視もしくは怪しむ傾向にある。だが僕には宗教がどれだけ大きな存在であるかを認識する。キリスト教の神もイスラムのアラーの神も仏教の仏陀も僕には存在すると言い切れる。だが、それは彼らの中にであり、その彼らの中にある『神』が彼らを突き動かすのである。
そして僕はマリオの神に感謝した。
イタリアンレストランはとても流行っていた。僕らは魚料理とピザを頼んだが、前菜に出てきたパンは独特の味でとてもおいしかった。ピザも大きくて食べきれないほどだった。それはスタッフの女の子を呼びつけてとてもおいしいと言うほどだった。
スタッフの女の子に「このパンは何処で売っているんだ?」と尋ねると、「このお店でしか売ってないの。お店で作っているパンだから」との事だった。すかさず、「じゃあ、パンを買いたい。」というと、「ごめんなさい。もう販売用のパンは売り切れてしまったの。」と残念な回答が帰ってきた。
僕らはおなかをいっぱいで満足して帰る時、スタッフの女の子が「これを持っていって。」と、あのおいしいパンとピザをお土産にくれた。もう僕は大感激だった。
「おお、すごい、すごいよ!ありがとう。これはすっごくHappyだぞ。」と満遍なく御礼を言った。こういう粋な計らいはアメリカならではだろう。
レストランを出た後、マリオはパサディナの観光地をいくつか案内してくれた。かなり昔(たぶん南北戦争時代)の建物や、綺麗な公園だ。
そしてもう夜の0:00ぐらいをまわっていたので僕らは帰路につく事にした。マリオはユースまで僕を送ってくれたのだが、その道の途中でマリオは僕の太ももをさすり始めた。『そうか、やはりこいつはゲイだったか・・・』と思い、ふとマリオの顔を見ると恋をしている目をしていた。『ありゃ〜』と僕は「やめてくれ」と彼の手を振り払った。
するとマリオは「ごめん。ほんとにごめん」と謝りだした。それ以来、ユースホステルに着くまで僕らは無言だった。
ユースホステルに着いた時、マリオは「りょう、僕は君のことが好きだ。ほんとに好きだ。付き合ってくれないか?」と告白してきた。当然、「ごめん、むりだよ」と僕は普通に断った。って言うか、ゲイじゃないし。そう、ゲイは真剣だ。純粋だ。
僕らのゲイのイメージは無理やり犯してきそうなものだが、それは非常に稀だと思う。それは女の人に対してそうする男の人が稀なくらいに。
彼らの恋は僕らの異性に対するものと全く変わらない。ただ、対象が違うだけだ。NewOrlingsのアンドレの友達やマリオを見ていてそう思った。
その後は「じゃあ、僕は行くよ。食事、ありがとう。マリオ」とぐらいの御礼にしておいた。こういう時のお礼を言うのはとても難しい。あまり言い過ぎては誤解を招くし、言わないわけには行かないし・・・
ユースホステルに戻ると、ホールには数人の日本人がいた。そこにはSanDiegoであったゆきことゆきえもいた。「おお、りょうくん!」「おお、おふたかた」と挨拶して、他の日本人の連中とも挨拶を交わした。「何それ?」とゆきえかゆきこ(どっちがどっちだかわからない)が僕のパンとピザを質問した。
僕は彼らにベニスビーチのパーカンションのダンスの事からマリオのことまで話して聞かせた。当然、みんな爆笑だった。
「へぇ〜、相変わらずすごいね、」とまたゆきえかゆき子が言った。「まあ、これ食べようよ、みんなでさ。ちょっと飲み物ないの?」と僕は飲み物を要求し、そして新しく見る日本人ともそれぞれ今までのたびの経過を話し合った。その時僕とゆきえとゆき子、カズと言う男の子、兵庫からきたという女の人(この人は旦那さんを家に置き去りにして一人でアメリカに旅行しに来たと言っていた、おたふくみたいな顔をした人だった)、あとの二人の男の子は名前を忘れたがいた。二人の名前忘れのうち一人は和歌山県から来ていると言うやつで田舎者のヤンキーかなにかのようだ。なぜならやたらと悪ぶった見栄を張るからだ。もう1人の男の子は埼玉の子で僕より2,3歳若かった。
みんないろんな話をしたが、さすがに僕の旅行話にかなうものはいなかった。それはとても自慢だった。
そして次の日、たまたま朝ご飯の時間が一緒だったゆき子かゆきえのどっちかが(仕事が看護婦さんの方だった)友達になったアイルランド人の女の人とビバリーヒルズへ観光に行くのを誘われ、彼女たちに着いて行く事にした。アイルランド人のその人はやはり名前を忘れたが、「どこ出身なの?」と僕が尋ねると「アイルランドよ。」と答えた。「アイルランド?そんなところあったっけ?アイスランドじゃなくて?」「いいえ、アイルランド。イングランドの隣よ。」「ああ、イギリスね。」と僕が言うと、「違うわよ!アイルランドはアイルランドなの。イギリスと政府が同じだけど国は別なのよ。」と誇りたかげに答えた。『おいおい、政府が同じだけど国が違うなんて聞いたことないぞ。そういう言い方もありなのか!?』と内心思った。
ここでも諸外国の愛国心と民族意識の高さをまざまざと感じた。
そして夕食はアイランドの女の人も日本人の連中もみんなでよってたかった食事を作り盛り上がった。
そう、明日は僕と看護婦さん(ゆき子かゆきえのどちらか)と日本人の男の子、アイルランドの女の人がそれぞれ帰国する日だったのだ。
帰国の日
ついに今日は日本に帰る日だ。
朝は8:00くらいに起きて準備に取り掛かる。
そして看護婦さんと男のことユースホステルのロビーで集合し、みんなに別れの挨拶をしていざLosAngels空港行きのバスへ。
このときもまだ『日本に帰る』と言う意識がまるでなかった。なんかまた別の町へ移動すると言った感じだった。
さて、何事もなく空港に着き、空港まで一緒にきた看護婦さんと男のこともここでお別れだ。彼ら二人はJALで日本に、僕はマレーシア航空で帰るのだ。
「それじゃあ、また地球のどこかであったらね!」と、別れの挨拶。成田から出発した時とは違って帰る時は飛行機出発の数時間前にちゃんと到着していた。
そして僕はチェックインの手続きを行った。
しかし、このたびは最後の最後まで僕を普通には過ごさせてくれなかった。
カウンターのおばちゃんが僕の航空チケットを見て一瞬眉をひそめた。そして、「あなたね、空港税が払われていないわね。Losの空港税は3ドルよ。」と、言われてしまった。たかだか3ドル、されど3ドル・・・・そう、僕にはこの3ドルのお金すら持ってなかったのだ。空港に来るまでのバス代で、財布の中は1ドルしかなかった。
「ええっえ!!!、3ドル?すみません、まけてもらえませんか?」粘りの交渉をはじめた。「空港税はディスカウントできないわよ。払わなければ飛行機に乗れないわね」
「うっそー、まじかよ・・・」と一瞬どうしようか考えて・・・・『そうだ、看護婦のやつらがまだいるはずだ!』と思いつき、「わかったよ、ちょっと待ってて」とカウンターのおばちゃんに言い、JALの受付カウンターへ走った。
案の定JALのカウンターには看護婦さんのやつと男の子が行列の中にいた。と、さっそく「おお、元気か!またあったね!!」と白々しい挨拶をし、「実はさ、空港税が払えなくて困っている。3ドルかしてくれないか?」というと、「ははは、りょうらしいね。いいよ。別に返してもらえなくても。どうせ日本で使えないし、ドル紙幣は。」
と3ドルを貰い受けた! 「おお、ありがとう。恩にきるよ」とすぐにマレーシア航空のカウンターへ戻った。
やっとチェックインが完了し、ホッとしていると看護婦と男の子達にまたも出くわした。「おお、またまたあったね!」とさらに白々しい挨拶をすると、3人でお昼を取ることにした。もちろん、僕はお金を持っていなかったので奢ってもらった。
そして出発時間が近づいてきた。僕は二人にお別れを言い、マレーシア空港の登場口へ向かった。登場口でガラス越しにアメリカの砂漠を見ていると急に日本に帰るんだと言う意識が湧いてきた。『あ〜、帰りたくねぇ〜・・・・』もう今にも逃げ出したくなってきた。振り返ると、あまりにもいろんな事が起きた。
バイアグラを買うために来た日本人、ハリウッドのマリファナや、ラスベガス、ニューオーリンズのアンドレやデジャ、メキシコのカーラや親切だったおじさんたち。
ただ唯一日本に戻る意味は、注文をしておいたバイク、アレキサンダーに乗るためだ。その時の僕にはそれしか意味を見出せなかった。
ふと財布の中を見た。1ドル札と2ペソと500円が入っているだけだった。でも心の中はいっぱいだった。すごい満足がいっぱいいた。
行きの飛行機同様、ふんだんに飲み食いして気づくと成田空港だった。一ヶ月ぶりの日本、成田からローカル電車で家に戻った、みんなの歩くのがはやいと感じた。